張富士夫
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張富士夫(ちょう ふじお、1937年2月2日 - )は、トヨタ自動車の現会長(前社長)、ソニーの社外取締役。また経団連副会長、日本自動車工業会会長、財務会計基準機構理事。政府の教育再生会議委員。しばしばJR東海の現会長 葛西敬之と並んで「名古屋のドン」と言われる。
[編集] 来歴・人物
東京都立駒場高等学校、東京大学法学部卒業。トヨタ自動車の生産部門に所属していた際に、トヨタ生産方式を編み出した大野耐一のもとで働いていた経験もある。なお姓から在日中国人か韓国人と誤解されることもあるが、張家の先祖は代々鍋島藩の教育指南方をしていたほどの由緒ある家系であり、日本人である。そのため親が日本人らしい名前だということで富士夫と名づけたと雑誌のインタビューで答えていた。日本を代表する超巨大企業の社長であったが、愛車は自社のカローラとのこと。
1990年代前期に始まった日本の”構造不況”もいよいよ10年ものか、と悲観的な経済観測が支配的であった1998年(平成10年)、トヨタ自動車はやや異彩を放っていた。経済評論界では”トヨタ銀行”という渾名が流行していた。それは長引く不況により有利子負債の累積した企業、経営破綻(倒産)した企業の名が新聞経済面やテレビニュースに名を連ね、日本の銀行の自己資本比率の低さが問題視されていた中、トヨタ自動車は堅調な資金力を保持し続けていたからであった。その余力を背景として当時のトヨタ自動車では奥田碩(おくだ ひろし)社長(現:相談役)の強力な指導力の発揮により”改善”(業務を改善すること)の徹底強化が推進されていた。そのさなかに奥田よりバトンタッチを受け社長に就任したのが、米国ケンタッキー工場の稼動開始などを担当し、国際戦略に強みを持つとされる張であった。
しかしながら、2005年(平成17年)まで7年間の張の在任期間中トヨタの名が世界市場の注目を集めることは少なかった。むしろ目立ったのは国内市場における新たな地歩であった。
中でも圧巻だったのは従来の車種を次々と廃止し、多くの新車種を発表したことである。コロナ、カリーナ、ビスタ、スターレット、マークII・・・といったかつてのトヨタを代表する車種が引退し、代わって登場したのがアリオン、シエンタ、ヴィッツ、イスト、パッソ、アイシス、マークX・・・といった斬新な車種である。とりわけ1999年(平成11年)発表されたトヨタ初の本格派コンパクトカーである”ヴィッツ(Vitz)”はデビュー早々にして日本を代表するベストセラーとなった。また、10代目マークIIとしての意味も併せ持って2004年(平成16年)新登場したFRスポーツセダン”マークX”はトヨタ自動車東京進出の所縁の地品川で大々的な発表会を催しての衝撃的デビュー。『東海テレビスーパーニュース』でも報道特集が組まれるなど大きな注目を集めている。
張社長在任中最後の年度決算となる2004年度決算では2000年(平成12年)の日産自動車(カルロス・ゴーン社長)に続いて同社史上最高利益を記録。後任の社長は、原価低減の推進役を務めた渡辺捷昭。在任中準備に進められていたレクサス店の日本進出も同年8月に果たした。
[編集] その他
- 元警察庁長官の國松孝次とは、東京大学時代に 剣道部で共に汗を流した仲である。
- かつて(2003年~2005年)、日産自動車のカルロス・ゴーン会長兼社長兼CEOも、ソニーの社外取締役を務めていた。
- 2006年6月にCNNが公表した「重要な人物50人」の中の8人目として、日本人として唯一選ばれた。