式守家
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[編集] 由来
式守家の創設の由来は諸説あるが、明和4年(1767年)5月の番付から名前が乗るようになった、初代式守伊之助が式守姓最初の行司であると言われる。
初代式守伊之助は、本名:谷伊之助。元文5年(1740年)生まれで、元は伊勢ノ海部屋の力士。その後行司に転向し、吉田司家の門人に。安永3年(1774年)10月、木村庄之助の次位となり、寛政9年(1797年)10月に引退。
その後、彼の弟子たちが式守姓を名乗るようになった。この関係で、明治30年代までは伊勢ノ海部屋系統の部屋の行司のみが式守姓を名乗り、木村姓の最高位が木村庄之助、式守姓の最高位が式守伊之助と決まっており、姓を変更する事は無かった。
これが終焉したのは明治44年5月、友綱部屋の6代木村庄三郎が10代式守伊之助を襲名してからで、それ以後、姓を変えるようになった。
行司の年寄襲名が禁止される前は、式守伊之助は式守または永浜を年寄名として名乗っていた。今でも立行司は相撲協会の現役評議員の資格を認められており、呼び名は「親方」といわれる。
なお、年寄名跡の式守秀五郎は、元々行司が襲名した年寄名跡が起源である。
[編集] 軍配
木村姓と式守姓での一番の違いは軍配の持ち方である。木村姓は手のひらを下に向けて軍配を握る。これを「陰の構え」と言う。一方、式守姓は手のひらを上に向けて軍配を握る。これを「陽の構え」という。またかつては、軍配の形も木村姓は卵型、式守姓は瓢箪型と決まっていた。(現在は全て卵型。)