市原郡
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市原郡 (いちはらぐん) は、上総国および千葉県にあった郡。 ほぼ全域が現在の市原市に相当する。
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[編集] 歴史
[編集] 古代・中世
現在の市原市北部を支配していた「菊間国造」(くくまのくにのみやつこ)の領域を中心に編成された。 「上海上国造」(かみつうなかみのくにのみやつこ)の支配領域であった養老川左岸は海上(うなかみ)郡とされ、当郡は養老川右岸を領域としていたと考えられている。
律令制の下で上総国の中心とされ、国府(国衙)、国分寺、国分尼寺、総社のいずれもが当郡に置かれていた。
平安時代末期頃に東西に分割され、「市西(しさい)郡」・「市東(しとう)郡」となった。
[編集] 近世
江戸時代初期に市西郡・市東郡、および元の海上郡であった海北(かいほう)郡・佐是(さぜ)郡などが統合されて市原郡となった。おおよそ養老川の全流域に相当する(ただし最上流域は夷隅郡)。
郡内の支配は細分化され、幕府直轄領(天領)、旗本知行地、藩(大名)領が複雑に入り組んでいた。 当郡内に支配の拠点(陣屋)を置く藩もあったが、いずれも2万石以下の小藩であり、しかも江戸時代を通じて存続した藩はなかった。 1867年(慶応3年)の大政奉還の時点で郡内に陣屋を置いていたのは鶴牧藩(1.5万石)のみである。
1868年(明治元年)、徳川宗家(旧将軍家)の駿府(静岡)入封に換えて遠江浜松藩主であった井上正直が当郡を中心に6万石の領地を与えられ、石川村の台地上に陣屋を置いた。台地上に整備された城下町が鶴舞と名づけられたことから、この藩は鶴舞藩と呼ばれる。また、駿河沼津藩主であった水野忠敬が菊間村に陣屋を置き菊間藩(5万石)が成立した。
[編集] 明治以降
1871年(明治4年)7月14日(旧暦。太陽暦では8月29日)、廃藩置県によって鶴牧藩、鶴舞藩、菊間藩はそれぞれ鶴牧県、鶴舞県、菊間県となった。 同年11月(旧暦)の府県統合で市原郡全域が木更津県の一部とされた。 木更津県は1873年(明治6年)6月15日に印旛県と統合され、千葉県に属することとなった。
1878年(明治11年)、郡区町村編制法によって行政区画としての市原郡が編成され、千葉郡とともに「千葉市原郡役所」(所在地:千葉町[現千葉市])がこれを管轄した。
[編集] 町村制施行以降の変遷
- 八幡町、五井村、千種村、鶴牧村、東海村、海上村、菊間村、湿津(うるつ)村、市東村、市原村、市西村、養老村、戸田村、明治村、内田村、鶴舞村、高滝村、富山村、平三村、里美村、白鳥村
- 1891年1月9日 - 鶴舞村が町制を施行し鶴舞町となる。
- 1891年5月20日 - 五井村が町制を施行し五井町となる。
- 1891年6月1日 - 鶴牧村が町制を施行し姉崎町と改称する。
- 1924年7月15日 - 明治村が町制を施行し牛久町と改称する。
- 1954年1月15日 - 高滝村、富山村、里見村、白鳥村が合併して加茂村が発足する。
- 1954年11月3日 - 五井町と東海村が合併し、改めて五井町が発足する。
- 1954年11月15日 - 牛久町、鶴舞町、戸田村、内田村、平三村が合併して南総町が発足する。
- 1955年2月11日 - 湿津村と市東村が合併して市津村が発足する。
- 1955年3月20日 - 五井町と千種村が合併し、改めて五井町が発足する。
- 1955年3月31日 - 八幡町、菊間村が合併して市原町が発足する。
- 1955年3月31日 - 市西村、養老村が合併、町制を施行して三和町が発足する。
- 1956年3月25日 - 三和町と海上村が合併し、改めて三和町が発足する。
- 1956年7月1日 - 市原村が分割されて市原町と五井町に編入される。
- 1961年4月1日 - 市津村が町制を施行し市津町となる。
- 1963年5月1日 - 市原町、五井町、姉崎町、三和町、市津町が合併、市制を施行して市原市が発足する。
- 1967年10月1日 - 南総町、加茂村が市原市に編入されて、同日、市原郡消滅。
- 1955年3月31日から1956年7月1日までは「市原町」と「市原村」が併存していた。