山本英一郎
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山本英一郎(やまもと えいいちろう 1919年5月12日~2006年5月26日)は、日本のアマチュア野球組織に携わった人物である。
[編集] 来歴・人物
岡山県出身。台北第一中、慶応大を卒業後、社会人野球の鐘淵紡績(鐘紡、現在は廃部)でプレー(いずれも外野手)。その後アマチュアの審判員や解説者を経て、1964年に社会人野球協会(現日本野球連盟)へ。
山本は野球の国際化を自らのライフワークとしており、国際野球連盟(IBAF)の日本代表として派遣されるたびに、野球をオリンピックの競技として世界に普及すべきであるとの持論を繰り返し主張、また、IOC総会が開かれるたびにIBAFの一員としてロビー活動に精力的に取り組んだ。その結果、IBAF加盟国は100を超え、1984年のロサンゼルスオリンピックで野球は公開競技として採用され、1992年のバルセロナオリンピックにおいては、正式競技として採用された。このとき山本は、国内で選手派遣のばらつきがあってはならないとして、国内のアマチュア野球の団体を統括する組織として全日本アマチュア野球連盟を発足させた。
1997年に日本野球連盟の会長に就任。その後IBAFの副会長にも就任した。高齢ながらエネルギッシュに野球の国際化に向かって行動する姿は世界の野球界のみならずIOCの間でも有名であったという。2000年のシドニーオリンピックからプロ野球選手の参加が解禁になるという情報が入るや否や山本は、プロ野球側に積極的な話し合いを持ちかけ、1999年、ソウルで行われた第20回アジア野球選手権(シドニー五輪アジア予選)に8人のプロ野球選手を参加させることにこぎつけた。また、2004年のアテネオリンピックでは金メダルを獲得するという至上命題のもと、アマチュア組織の最高峰にいる人物であるにもかかわらず、全員がプロ野球選手によるオールジャパンの編成をプロ側に要請した。
高齢を理由に、2005年2月に日本野球連盟の会長を退任し、松田昌士JR東日本会長にその座を譲った。また同年6月にIBAF副会長の座も辞任した。
彼にとって会長職最後となった2004年の第75回都市対抗野球最終日、表彰式の中で挨拶を求められた山本は感極まり、「都市対抗バンザイ! 社会人野球バンザイ!」と叫んだ。
山本の仕事ぶりには、独善的であり、かつ晩節はプロ野球選手を日本代表に流入させたという点について批判する者も多い。一方で、山本の行動力なくして野球の国際化はなく、また、オリンピックで野球競技が採用されることはなかったであろうと評価する声もある。80近い高齢となっても指導者の地位にいた点に批判もあるが、彼の世界的な活動は他のアマ球界の役員同様、一部を除いて自弁である。彼は資本家ではない。手弁当でもスポーツ振興に汗を流す人材が確実に高齢化しているのが現状である。
晩年も山本は精力的に社会人野球や国際大会の会場に姿を見せていたが、2006年5月26日、東京都世田谷区の自宅で心不全のため急逝。享年87。2006年も、東京ドームで行なわれていたワールド・ベースボール・クラシックの1次リーグや、3月のJABA東京スポニチ大会、またゴールデンウィークに岐阜市・大垣市で行なわれていたJABAベーブルース杯争奪大会に視察に訪れていたのを多くの野球ファンに目撃されており、突然の死は社会人野球界に衝撃を与えた。