居留地競馬
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居留地競馬(きょりゅうちけいば)とは、19世紀後半の日本において、外国人居留地で行われた競馬のことをいう。横浜・神戸の両居留地で行われたが、神戸におけるものは数年で廃止されたため、もっぱら横浜におけるものを指す。
居留地競馬は日本における初の洋式競馬(複数の競走馬と円形の馬場を用いる競馬)であり、現在日本で行われている競馬のルーツである。
居留地競馬は春秋2回それぞれ2日ないし4日開催され、居留地における祭典の側面をもっていた。競馬開催中は居留地内の外国人経営の商店や銀行は休業し、競馬の観戦や運営にあたった。また競馬開催前に横浜港に入港した外国の船舶の乗組員が競馬を観戦する習慣もあったという。
[編集] 横浜における居留地競馬
- 1862年(文久2年)、居留地競馬の施行体として横浜レース・クラブ(のちの日本レース・クラブ)が組織され、現在の元町および山下町付近の円形馬場(居留地競馬場)において競馬が行われた。競馬が行われた具体的な時期については諸説ある。
- 5月1日-2日説・・・『The Nippon Race Club 1862-1912』による
- 8月1日-2日説・・・J・R・ブラック『ヤング・ジャパン』による
- 10月1日-2日説・・・『横浜市史稿』、『The Japan Herald』による
- 1863年以降は居留地競馬場が住宅地とされたため、イギリス軍の練兵場および北方町妙香寺坂下(現在の横浜市中区大和町)の同軍砲術場において競馬が開催された。
[編集] 神戸における居留地競馬
1868年12月25日に居留地内に建設された馬場においてクリスマスの催しとして西洋式の競馬が行われた。翌1869年にはヒョウゴ・レース・クラブによって居留地の北、生田神社の東にあたる場所に競馬場(神戸競馬場、もしくは三宮競馬場)が建設され、以後同競馬場において競馬が行われるようになった。競走馬にはポニーが用いられた。1875年に付近に鉄道が開通すると周辺地域の開発が進み、その影響から神戸競馬場は廃止となった。