小林彰太郎
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小林彰太郎(こばやししょうたろう、1929年-)は、日本の代表的自動車評論家で作家。自動車評論においては、草分け的存在。
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[編集] プロフィール
[編集] 学生時代
東京都に生まれ、少年時代は飛行機好きの軍国少年として育ち、終戦間際では、動員された海軍技術研究所で、アルミ製の予定だった、中島十八試陸上攻撃機「連山」を鋼鉄製に変える開発に関わっている(液体酸素を研究所まで運ぶ仕事。尚、スチールの連山の計画があった事は、公開されている実録にも載っていない。)。1945年に第二次世界大戦が終結し、連合国による飛行禁止令が出て以降は徐々に自動車へその興味が移り始める。その後東京大学在学中に、アメリカ大使館付随の語学学校で大使館員に日本語教育をするアルバイト(給料は当時の学生のアルバイトでは破格だったという)を1年間続け、1932年型オースティン・セブンを購入し、本格的に車の世界へ入り込む。
[編集] CG誌初代編集長
大学卒業後、戦後初の本格的な自動車雑誌である「モーターマガジン」誌の編集部員を経て1962年4月に「カーグラフィック」(二玄社刊/創刊時の名称は「CARグラフィック」)の創刊に関わり、初代編集長として「カーグラフィック」を日本を代表する自動車雑誌に育て上げた。また、1964年にはホンダS600をヨーロッパに持ち出し、2ヶ月半で12,000kmを走破、ホンダのF1初参戦を取材するなど、創刊当初からその実践主義と海外へ積極的に出る姿勢、モータースポーツへの情熱は一貫している。
[編集] 現在
豊富な知識に裏打ちされた自動車評論には定評があり、国内外に熱烈なファンを持つ。1989年に「カーグラフィック」の編集長を退任した後も、同誌の編集顧問として評論活動を行っている。愛車は1920年型のランチア・ラムダやランチア・イプシロン、シトロエン・エクザンティア、ブガッティなど数台を所有。日本クラシックカークラブ(CCCJ)会長でもある。
[編集] 家族・交友
実家はライオンの創業者一族。詩人の谷川俊太郎とは、30年近く、隣人同士で幼馴染であった。今も、俊太郎さん、彰太郎さんと呼び合う仲である。
[編集] 著書
- 小林彰太郎の世界(二玄社)
- 小林彰太郎の世界 + 徳大寺有恒との対話(二玄社)
- On the road―すばらしきクルマの世界(二玄社)
- 長期テスト シトロエンエグザンティアV-SXの全記録(二玄社)
- THE PURSUIT of DREAMS―The First 50 Years of HONDA 独創と挑戦の50年(二玄社)
- HONDA S2000(アクシス)
[編集] 編纂
- 写真で見る昭和のダットサン(二玄社)
- 世界の自動車(二玄社)
[編集] 翻訳
- ミニ・ストーリー―小型車の革命 (ローレンス・ポメロイ著/二玄社)
- いつもクルマがいた―ポール・フレール自叙伝(ポール・フレール著/二玄社)
- ハイスピード・ドライビング (ポール・フレール著/二玄社)
- 新ハイスピード・ドライビング (ポール・フレール著/二玄社)