唐継尭
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唐継尭(とう けいぎょう、簡体字:唐继尧、繁体字:唐繼堯、ピンイン: Táng Jìyáo, 1883年-1927年5月23日)は、中国の雲南省出身、滇軍の創始者。1915年に雲南の独立を宣言して、袁世凱の皇帝失脚の主原因になったとされる。
[編集] 生い立ち
1903年、唐継尭は清朝の秀才に合格、翌年日本に留学して、東京振武学校(士官学校の予備校)に学ぶ。学期間で孫文の中国同盟会に参加する。1909年に帰国した後に、雲南任督練事務所の責任者、雲南軍事講習堂の教官を経て、新軍に参加する。1911年、彼は蔡鍔の指揮の元、昆明で武昌起義を起こし、雲南軍政府の軍事を任され、参謀二部次長兼軍事講習堂頭取になる。1912年に軍を率いて貴陽を占領、自ら貴州都督になった。 その後、彼と孫文との関係が悪化、1913年には袁世凱を支持し、第二革命に参加。四川の熊克武の率いる軍を攻撃する。同年10月、蔡鍔の雲南都督の座を継ぐ。1915年12月、袁世凱が帝位につくことを不満に思い、蔡鍔と共に雲南の独立を宣言して、第三革命(護国戦争)が勃発した。これは、中華帝国が国家廃絶に追い込まれた主原因だとされる。 1917年、彼と孫文は関係が修復して、孫文の護法運動を支持したが、陰で国軍を鎮圧し、雲南地区の軍閥指導者になる。その後民治党を組織して自治を堅持し、共産党に反対する姿勢を採った。1922年に東陸大学(今の雲南大学の前身)を創立する。1927年2月6日に竜雲と胡若愚のクーデターに遭い失脚、同年5月23日の唐は昆明で病死した、享年45歳。