和田義彦
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和田義彦(わだ よしひこ、1940年-)は、日本の画家。輝いた栄誉には河北倫明賞がある。
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[編集] 略歴
- 1940年 - 三重県北牟婁郡引本町(現紀北町)で生まれる。父親は神職。
- 1959年 - 東京藝術大学油画科に入学、牛島憲之、山口薫、伊藤廉らに師事する。のち、同大大学院修了
- 1964年 - 初の個展を開催
- 1965年 - 国画会で初入選、画家として本格的なキャリアをスタート。武蔵野美術大学で非常勤講師なども勤める。
- 1980年 - 名古屋芸術大学美術学部絵画科助教授。
- 1986年 - 名古屋芸術大学教授。
- 2002年 - 第25回安田火災(現・損保ジャパン)東郷青児美術館大賞を受賞。2月、名古屋芸大受験者の一部への不適切な対応(連絡先電話番号のメモを渡した)が問題となり、3月には調査委員会を置かれる事態になる。勧告を受けて7月末、大学を依願退職。名誉教授の称号をうけている。(学生達へのセクハラ疑惑も取沙汰されている)
- 2005年 - 和田画伯松涛美術館個展開催記念パーティ。綿貫民輔や鳩山邦夫、山本寛斎、奥田碩、小栗康平など多くの著名人が出席。
- 2006年3月15日 - 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
- 2006年5月31日 - 受賞作の盗作が問題となり、国画会から退会勧告を受ける。
- 2006年6月5日 - 芸術選奨文部科学大臣賞、安田火災東郷青児美術館大賞の取り消し決定。
- 2006年6月12日 - 国画会を退会。
[編集] 作品酷似問題
2006年芸術推奨の受賞するにあたって評価理由となった主な業績である回顧展のうち、少なくとも7点、それ以外にも合計10数点がローマ在住の画家アルベルト・スギの作品に酷似しているとの指摘が匿名で文化庁へ投書される。これを受けて調査したところ、専門家ではない一般人の目から見ても構図、配置、色遣いなどほとんどの部分が同じであった。両者の作品を重ね合わせるとデッサンの基本ラインまで大部分が一致するものもあることが判明し、パロディやオマージュとは全く性格の異なるものであった。また、スギ自身も各種メディアに「和田が自分の作品を盗作した」との主張を表明したため、文化庁は両者の言い分を聴取の後、和田の受賞取り消しを決定し、賞金の30万円も返還を求めた。それを受け和田が所属する美術団体「国画会」は会務委員会を緊急に開き、2006年5月31日に団体退会勧告を行うことを表明。和田が勧告に応じない場合には、除名する方針を決定した。また2002年に『想』(01年作)という作品で受賞した安田火災(現損保ジャパン)東郷青児美術館大賞も盗作であるとの判断から理事会により取り消されることになった。2006年6月12日には退会勧告を受けていた国画会へ和田本人より提出された退会届が同会事務局宛に届いた。同14日、駐伊日本大使館を通じ小坂憲次文部科学相、河合隼雄文化庁長官の連名により、盗作されたとされるスギへ謝罪文が届けられる。芸術推奨取り消しなどが正式に伝えられスギは告訴などの法的措置はとらないことを改めて表明した。
[編集] 和田の証言
和田本人は「スギ氏とはローマ留学中に家族ぐるみで付き合いのあった友人で一緒にデッサンすることもあり、構図が似た可能性があるが、100%自分のオリジナリティをもって創作した作品であり盗作ではない」と弁明している。しかし一方、「同じ構図で描く事は、すべてスギ氏の了解済み。日本で発表する事も伝えていた」と上述の内容とは正反対の発言も行っている。
スギ氏などからの盗作の指摘に対しては、「憤りを感じている」とコメントしている。
[編集] スギの証言
「アトリエに来て私の作品を賞賛し周囲の写真を撮っていた」「しかしその姿は絵画愛好家という感じで彼が画家だとは全く知らなかった」と語っている。スギも和田が画家ではなく西洋美術の教師であると思っていたため、デッサン画等の写真撮影にも応じていたという※。
また、和田が事件が問題化した2006年5月13日に通訳を連れ再び自分の許を訪ねて来た際、謝罪に加え下記のような書置きを残し、更には「自分は肺癌で余命幾許もない、帰国したら即入院予定の身だ」とまで述べたという。
(記)
ただひとつお願いがあります
私を訴えないでください
私はこの問題から遠いところで
短い余生をおくりたいのです
※この写真撮影に関してスギ氏より盗撮として告発されているわけではない。
日本テレビ「スッキリ!!」内でテリー伊藤の質問に対して暗にスギ氏との痴情の縺れが原因と認める。
[編集] 衆議院内にある肖像画
一連の盗作疑惑騒動が、思わぬところへと波及した。衆議院内に掲げられている綿貫民輔元衆院議長(現:国民新党代表)の肖像画2点が、和田の製作によるものだったことが、2006年6月になって明らかになった。数年前に、和田側からモデルの依頼を受けたことがきっかけで、二人が知り合ったとの報道がある。また、肖像画製作のきっかけは、衆議院議長経験者は、衆議院内に肖像画を掲げる慣例があるためで、綿貫側より制作を依頼。2点制作され、現在は衆議院内にある議長応接室などに飾られている。衆議院事務局は前例のない異例な事態ということもあり対応に苦慮しているが、肖像画自体は盗作疑惑騒動とは無関係であると綿貫サイドは表明し、今のところ撤去はされていない。