呂纂
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呂纂 | |
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姓名: | 呂纂 |
廟号: | -- |
諡号: | 霊帝 |
陵墓: | 白石陵 |
国号: | 後涼 |
在世: | ?-401年 |
在位: | 399年-401年 |
年号 | |
咸寧:399年十二月-401年正月 |
呂纂(りょさん、?-401年 在位399年-401年)は、中国の五胡十六国時代、後涼の第三代皇帝(天王)。字は永緒。後涼の初代皇帝・呂光の庶長子。呂紹の異腹兄。
目次 |
[編集] 略歴
出身地は略陽郡(甘粛省天水)で氐人。
呂光在位のとき、虎賁中郎将となり、太原公に封ぜられ、太尉となりのちに天王となった。
[編集] 経歴
[編集] 即位以前
龍飛二年(397年)、呂光は西秦の乞伏乾帰を呂纂らに討たせ、呂纂は金城を攻略した。だが乾帰が東へ逃げたという偽情報にかかり呂光の弟呂延が乾帰に敗れて死んだ。その後呂光は讒言を信じ、沮渠羅仇らを殺したためその甥の沮渠蒙遜が挙兵した。呂纂は蒙遜を破ったが、蒙遜とその兄の沮渠男成は段業を推戴して北涼を建国した。
[編集] 即位
龍飛四年(399年)、呂光は病気が重くなると太子呂紹を天王とし呂纂を太尉とした。そして呂光は臨終の際「呂紹は非才だが嫡子のため元首になる」と呂紹を呂弘と共に補佐するよう遺言した。
そして呂光が死に、呂紹が跡を継ぐと呂紹は呂纂に殺されるのを恐れ、位を呂纂に譲ろうとしたが呂纂は拒否した。従弟の呂超は呂紹に危険な呂纂を除くよう進言したが呂紹は許さなかった。
そうして呂紹が対策を練っている内に、呂弘は兄の呂纂をそそのかし呂紹の廃立に踏み切らせた。ついに呂纂と呂弘は兵を率い呂紹に迫った。呂超は兵を率いて駆けつけたが、兵が呂纂を恐れたため手が出せず、呂紹は自害した。
呂纂は呂弘の兵力を恐れ位を譲ったが、呂弘が辞退したため呂纂が天王に即位した。また出奔していた呂超を、忠臣であるとして呼び戻した。 しかし呂弘は功名を立てたのち呂纂と対立し挙兵したが、呂纂は呂弘を破り、呂弘は逃げたが捕らえられ殺された。
[編集] 即位後
咸寧二年(400年)、呂纂は、勢力拡大を目指し諸外国と争いを繰り返した。 3月まず南燕に攻撃を仕掛けるが、敗退した。6月、呂纂は勢力拡大を諦めず、今度は北涼に対し出撃したが、その隙に南涼に姑臧を攻撃され、急遽引き返すこととなった。 これにより、呂纂による拡大政策は失敗したと言え国力を浪費し、しかも酒色に耽り内政を怠り後涼の弱体化を招いた。
[編集] 最期
咸寧三年(401年)2月、呂氏一族の権力争いの中で呂纂は呂超の兄である呂隆に酔わされ、呂超に刺殺された。
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