吉岡隆徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉岡 隆徳(よしおか たかよし、1909年6月20日 - 1984年5月5日)は、昭和初期に活躍した陸上短距離選手である。東京教育大学体育学部卒業。元東京女子体育大学教授。名前は通称で「りゅうとく」とも呼ばれた。
1909年(明治42年)6月、島根県簸川郡湖陵町に生まれ、1932年(昭和7年)8月、第10回ロサンゼルス五輪で、東洋人初の100メートル走6位入賞を果たした。以降、日本人のオリンピックの短距離種目での決勝進出者は1992年のバルセロナオリンピック400m走での高野進まで現れなかった。このロサンゼルス五輪の100メートル走で金メダルをとり、「深夜の超特急」と呼ばれたエディ・トーラン選手にちなんでスポーツライターの川本信正(当時読売新聞記者)がつけた暁の超特急という呼び名は有名である。
1935年6月9日と6月15日には10秒3の世界タイ記録(他にラルフ・メトカルフェらを含む4人が記録)を達成。
その翌年のベルリンオリンピックには日本中からメダル獲得の大きな期待を寄せられて出場したが、それがプレッシャーとなり、決勝に進めず敗退してしまう。その結果に責任を感じた吉岡は自殺まで考え、ノイローゼ寸前になった。しかし日本で迎えた子どもに「吉岡選手、またがんばれ」と励まされたことで再び競技の道に戻ることができた。
現役を退き1941年には広島高等師範学校に招かれ教授に就任。1945年8月6日には同校学生を連れて東洋工業内で勤労奉仕中、原爆投下に遭うが、爆心地から10km離れていたため自身に大きな怪我はなかった。しかし中心部に残った家族に会うため、途中瀕死の人達を無視し先を急いだ自身の行動にショックを受け教職を捨てた。戦後は広島県庁教育委員会保健体育課長に職を移り、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど戦後の約10年間、陸上の現場から離れ体育行政に携わった。また1952年には、広島カープの初代トレーナーを勤めるなど当地のスポーツ界に功績を残した。
こうして裏方の仕事を続けるうち指導者としてベルリンの屈辱を晴らしたいと強く願い、リッカーミシン陸上部監督として55歳で陸上の現場に復帰。飯島秀雄や依田郁子らを指導した。東京オリンピック終了後にリッカーミシンを辞し、東京女子体育大学に赴任した。また、生涯にわたって100mを走ることにこだわり、晩年に至るまで走り続けた。