南部修太郎
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南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年10月12日 - 1936年6月22日)は、小説家。
[編集] 経歴
土木技師である父常次郎の長男として明治25年、宮城県仙台市で生れる。父の転勤につれて東京・神戸・熊本・博多・長崎と転住した。明治38年の春、父の転勤とともに東京に上り、赤坂・麹町・四谷に住み移ったが、麻布に家が極まり(麻布区新龍土町十二)、芝中学校に通う。明治45年、慶應義塾大学入学。文学科露文学を専攻。大正6年3月、慶應を卒業。以後大正9年まで『三田文学』編集主任をつとめ、文筆生活に入る。大正10年、結婚し二人の子(長男淳一郎、次男亮二郎)の父となる。
昭和11(1936)年6月16日夜半、脳溢血のため邸前に倒れ、22日午前9時逝去。享年45。港区南青山 青山霊園1種イ22号1側に埋葬される(修文院釋樂邦信士)。
彼は経済的には恵まれていたが、身体的には病が絶えず、持病の喘息、チフス、肺炎などで若い頃に命を落としかけている。作家としても、成功したとはいえない。現在では作品を手に入れることさえ困難である。