十河信二
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十河 信二(そごう しんじ、1884年4月14日 - 1981年10月3日)は、第4代日本国有鉄道(国鉄)総裁(在任1955年-1963年)。「新幹線の父」と呼ばれる。
[編集] 来歴・人物
愛媛県新居郡中村(現・新居浜市)出身。旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)、上京し受験準備のために正則英語学校に入学、第一高等学校を経て東京帝国大学卒業後、鉄道院入りした。時の鉄道院総裁であった後藤新平が標準軌への改軌を唱えており、その薫陶を受け、実現構想を島安次郎らと共に立てたことが後の新幹線構想に影響を与えた(日本の改軌論争も参照せよ)。
その後、関東大震災の復興事業に携わった後南満州鉄道に転籍。終戦直後の一時期には愛媛県西条市長や鉄道弘済会会長を務めるなどし、1955年5月に紫雲丸事故で引責辞任した前総裁長崎惣之助の後を継ぎ、日本国有鉄道総裁に就任。
当時は洞爺丸・紫雲丸と国鉄連絡船の事故が立て続けに起こり、国鉄の信用は地に墜ちていた。十河は総裁の就任時、「鉄路を枕に討ち死にの覚悟」といって信用の回復を第一目標とする形で引き受けたという。
就任後、国鉄車両局長について1951年の桜木町事故で引責辞任し下野していた島秀雄を技師長として国鉄に復帰させ、自らは政治的手腕をふるい、東海道新幹線の建設を国会で承認させ、島とともに新幹線建設計画を主導・推進した。さらに主要幹線の電化や複線化を推し進め、オンライン乗車券発売システム「マルス」を導入して座席券販売の効率化を図るなど、当時高度経済成長で大きく伸びていた輸送需要への対応に努めた。しかし、三河島事故が発生、それと東海道新幹線の建設予算超過の責任を背負う形で、最終的には1963年5月に総裁に再任されず、東海道新幹線の開通を見るも事無く退任した。後任総裁は石田礼助。
1964年10月1日の東海道新幹線の出発式に、国鉄は十河も島も招待しなかった。しかし、後々に十河や島が「新幹線の父」と呼ばれるに至り、マスコミが彼等を紹介するときに、必ずと言っていいほどに国鉄が新幹線の開通式に彼等を招待しなかった事も併せて説明する様になった為、これは国鉄にとって痛恨事となってしまった。(但、マスコミも過去に十河が満州における官製政治組織の協和会大幹部であった点は取り上げないか、好意的にしか見ない点を考慮するとドチラも差し引きゼロと見てもよい。)
1973年に東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立されたが、その碑には功績を讃えて、十河のレリーフと座右の銘である「一花開天下春」の文字が刻まれている。ちなみに、そのレリーフの自分の肖像を見た十河は一言、「似とらん」と言ったそうである。
1981年10月3日死去。享年97。
俳句を趣味としていた。俳号は春雷。