佐々木禎子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐々木 禎子(ささき さだこ、1943年1月7日 - 1955年10月25日)は、日本の広島市に住んでいた原爆の被爆者で、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなっている。また、シアトルの平和公園にも銅像がある。2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。
目次 |
[編集] 白血病発症まで
1945年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。1954年8月の検査では異常なかった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがお多福風邪のようになり、顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べた所、白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。
[編集] 折り鶴
1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人によると「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価な物で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、擱に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
[編集] 折り鶴の数
禎子が生前、折られた折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われる。実際の数については遺族が数えていない事より分からない。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
[編集] 関連項目
- 広島市への原子爆弾投下
- 広島電鉄縮景園前駅(佐々木禎子さんが在籍していた広島市立幟町中学校の最寄停留所)
- 広島市立幟町中学校(佐々木禎子が在籍していた中学校)
- 広島駅(広島市立幟町中学校の最寄駅の一つ)