九五式軽戦車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九五式軽戦車 | |
---|---|
性能諸元 | |
全長 | 4.30 m |
車体長 | 4.30 m |
全幅 | 2.07 m |
全高 | 2.28 m |
重量 | 7.4 t |
懸架方式 | シーソー式連動懸架 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 240 km |
主砲 | 九四式37mm戦車砲(102発) |
副武装 | 九七式7.7mm車載機銃×2 (車体前部・砲塔後部 3000発) |
装甲 | 6〜12mm |
エンジン | 三菱 NVD 6120 空冷直列6気筒ディーゼル 120 馬力 |
乗員 | 3名(車長、操縦手、機関銃手) |
九五式軽戦車(95しきけいせんしゃ)とは1935年(皇紀2595年、旧軍の兵器は昭和以降皇紀の下2桁で呼称)に制式化され、第二次世界大戦の終結まで大日本帝国陸軍が主に使用した軽戦車である。ハ号とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 背景
初期の国産戦車八九式中戦車は最高速度 25km/h とされているが実際は 8km/h 程度が実用速度だったようであり、歩兵部隊に随伴し支援を行うには問題ないが、敵を追って追撃戦を行うのには遅すぎた。 熱河作戦に於いて、トラックとの協同作戦行動が出来る戦車の必要性を痛感した陸軍は、機動力に富んだ「機動戦車」を求めた。また、この頃陸軍部内では機械化部隊の創設を模索している最中であり、新型戦車にはある程度の数を揃える必要性が存在したため、上述の要求も加味した上で、この新型戦車は軽戦車とすることが決まった。しかし、完成した九五式軽戦車は余りに小型で非力だった為に主力とはならず、別途九七式中戦車が開発されることとなった。但し装甲貫徹能力に劣る短砲身57mm砲を搭載した九七式中戦車は「歩兵支援戦車」の色合いが濃いものとなった。
[編集] 開発
37mm砲を搭載するというところまでは世界的に見ても進歩的な選択であったが重量を約7トンとしてしまったのがまずかった。 これは日本は島国であるが故に、戦車を国外に移動させる時は必然的に船舶を用いざるを得ず、その際、船舶への戦車の積載・陸揚げを考慮すると、当時の標準的な港湾設備や船舶のクレーンの能力から戦車の重量は6t以内に収めることが要求され、その上当時の日本の技術力では高出力の戦車用ディーゼルエンジンが開発出来ず、機動力を確保するために装甲厚は薄くされてしまい、最大装甲厚は12ミリとされてしまった。 この装甲厚では、場所によっては小銃弾でも貫通してしまう恐れがあった。また、主砲とした九四式三十七粍戦車砲も当時の各国の37ミリクラスの対戦車砲と比較すると、威力が多少劣っていた。これは砲の初速自体が他国のものに比べ劣っていたのと同時に、日本の冶金技術の未熟さゆえに徹甲弾の威力が劣っていたからである(装甲板に当たると砕ける)。
装甲厚については、用兵者側でも異なる見解を示した。騎兵部隊は、速度と機動力を確保するため装甲防御力が若干落ちても、現状の武装と速度で十分としたが、戦車部隊は、機動力・武装はいいが現状の装甲では不十分で戦車としての価値は低く、せめて30ミリは欲しい、と主張した。結局、本車の当初の開発意図である「機動戦車」としては12ミリの装甲厚で十分との結論が下された。
この結果、九五式軽戦車は苦戦を強いられることとなる。
また、車内レイアウトはお世辞にも良いとは言えず、人間工学的に無理があった。狭い砲塔には37mm砲と砲塔後部に装備された機関銃が詰め込まれ、その両方を車長一人で操作しなければならなかった。
[編集] 実戦
初めて九五式軽戦車が本格的に投入されたノモンハン事件での戦闘では、三両一組のフォーメーションを組みBT-5・-7と戦闘を行い、撃破した。しかしこれは猛訓練の結果でもあり、無線は殆ど使われず、訓練により得られた以心伝心の様なものであった。またBT戦車の装甲厚が九五式とさして代わらない程度であったことも大きく影響した。
大日本帝国と同盟関係にあったタイでは太平洋戦争の開戦前に、タイと仏領インドシナとの間に起こったインドシナ戦争で日本から輸入した九五式軽戦車が大いに活躍した。
また、太平洋戦争の開戦後、ビルマ戦線にて英軍のM3軽戦車との戦闘に遭遇した事例(1942年3月5日)において、日本の軽戦車は次々とM3軽戦車に命中弾をあたえたが、全て跳ね返されてしまった。M3軽戦車は軽戦車とはいえ最大45ミリもの装甲があったのである。それに対しM3軽戦車の37ミリ砲は12ミリの装甲厚しか持たない九五式軽戦車を次々と撃破し、最終的にはM3に体当りまでして撃退する羽目に陥った。それでも機動力や使い勝手の良さなどから様々な戦線へと投入され、強力な米戦車や砲火などにより、戦車兵は終戦まで辛酸を舐めさせられた。
本車は他国の戦車が対戦車戦を意識した作りになってきている中で開発された、日本初の対戦車戦闘を考慮した戦車であることは間違いない。ただし想定していた相手がソ連の軽戦車であり、また中国大陸では深刻な脅威にぶつかることも無かったため、結局短い物差しで作った戦車になってしまった。このような戦車に連合軍の戦車と戦わせるのは余りに酷であったと言える。
しかしエンジンの故障も少なく長距離走破にもよく耐え、緒戦のマレー方面やフィリピン方面の戦闘で大活躍した。また、タラワ島、サイパン島等の攻防戦において海軍陸戦隊が使用し、特二式内火艇の開発に際しては開発母体となり、多くの部品が流用された。
本車は戦争序盤の侵攻作戦こそ本来の機動力を発揮し活躍したが、後半の防御主体の作戦では貧弱な火力と装甲防御力の不足に悩まされた。しかしそれは1935年に開発された車両を旧軍の苦しい財政事情、及び新型の車両に更新できない工業力の不足のために10年後の終戦まで運用し続けたからであって、決して本車が(開発段階で)劣っていたわけではないことも付記しておく。
[編集] 戦後
生き残った車両は大部分が解体されたが、一部は武装撤去の上戦後復興に活躍した。その中には北海道中央バス石狩線で積雪対策として馬そりを車輪代わりに使う雪上バス「バチバス」の牽引車として用いられていた。参考画像
中国大陸に残されたものは1945~49年にかけて行われた国共内戦で両勢力により使用された。因みに中国共産党軍が初めて編成した戦車隊は本車で構成されていた。
仏領インドシナに残されたものは戦後戻ってきたフランス軍が接収し、独立を求める反フランス勢力に対し使用された。さすがに最大装甲厚12mmでは不安だったのか、この車両には車体前面、戦闘室前面および砲塔側面に増加装甲が施されていた。因みに同地では八九式中戦車の使用も確認できる(本車と一緒に写る写真が残っている)。
[編集] 現存する車両
世界各地にある戦争博物館の中には本車を展示している博物館もある。日本でもかつては展示している所があったのだが、諸事情のため現在日本国内に現存する車両は無い。
以下にその例を挙げる。
- ボービントン戦車博物館(イギリス)
- クビンカ戦車博物館(ロシア) 同博物館には他にもいくつか日本軍戦車が展示されている。
- モスクワ・ポクラナンヤコブラ勝利公園(ロシア)
- アバディーン兵器博物館(アメリカ) 同博物館には唯一現存する一式砲戦車も展示されている。
- パットン戦車博物館(アメリカ)
- ハワイ・アメリカ陸軍博物館(アメリカ・ハワイ)
- タイ陸軍戦車博物館(タイ) 世界で唯一稼動する九五式軽戦車が見られる。
- 嵐山美術館(和歌山・南紀白浜) かつてヤップ島に2両あったものが日本に送られ、うち一つを取得したもの。
※博物館が2003年3月をもって閉鎖したことに伴いアメリカに寄贈されたため、現在はない。
また、博物館ではないがかつて日本軍が戦った場所では本車の残骸が野外展示されていることもある。サイパン島のラスト・コマンドポスト(サイパン守備隊玉砕の地)には高射砲に混じって完全に朽ち果てた本車1両が展示されている。同島には他にもいくつか旧軍の兵器の残骸が見られ、訪れた日本人観光客にこの美しい島が60年前に日米両軍の激戦地となったことを教えてくれる。
[編集] バリエーション
- 九五式軽戦車 北満型 中国での実戦運用を踏まえて路外性能向上のため小転輪を追加したもの。転輪の追加は一説ではあまり効果がなかったとも。
- 四式軽戦車 ケヌ 常人では砲塔にすら入れなかったケリ車に代わり、砲塔リング径を大きくして九七式中戦車の旧型砲塔を載せたもの。
- 五式4.7cm自走砲 ホル 九五式軽戦車の車体に一式47mm対戦車砲を装備してドイツ軍の駆逐戦車(形状はヘッツァーに似ていた)的性質を持たせた車両。
[編集] 参考
(書籍)
「戦車戦入門 <日本篇>」(木俣滋朗著 光人社NF文庫) 旧軍の戦車の開発~実戦運用まで詳しく解説。
「激闘戦車戦」(土門周平/入江忠国著 光人社NF文庫) 旧軍機甲部隊の戦史。「ノモンハンの雄」「栄光の日々」の章で九五式軽戦車の戦史がある。
「日本戦車隊戦史 ~鉄獅子かく戦えり~」(上田信著 大日本絵画) 月刊の模型誌「アーマーモデリング」に連載されていたものに部隊編成、戦車兵の軍装の変遷や部隊別マーキング表等の記事を加えたもの。イラスト主体でまとめられ、非常に分かりやすい一冊。
(プラモデル)
「帝国陸軍九五式軽戦車 ハ号」(ファインモールド社製 1/35) 通常型に加え北満型、海軍陸戦隊使用型の3種類がラインアップされている。詳しい実車解説も見所。
[編集] 関連項目
満州事変~第二次世界大戦の日本の装甲戦闘車両 | |||
---|---|---|---|
騎兵戦車 | 豆戦車 | ||
九二式重装甲車 | 九四式軽装甲車 | 九七式軽装甲車 | ||
軽戦車 | |||
ルノーFT | ルノー乙型戦車 | 九五式軽戦車 | 九八式軽戦車 | 二式軽戦車 | 三式軽戦車 | 四式軽戦車 | 五式軽戦車 | |||
水陸両用戦車 | |||
特二式内火艇 | 特三式内火艇 | 特四式内火艇 | 特五式内火艇 | |||
中戦車 | |||
八九式中戦車 | 九七式中戦車 | 一式中戦車 | 三式中戦車 | 四式中戦車 | 五式中戦車 | |||
重戦車 | 対空戦車 | ||
九一式重戦車 | 九五式重戦車 | 試製二〇粍対空戦車“タセ” | 試製三十七粍対空戦車“タハ” | ||
装甲兵員輸送車 | 化学戦車輌 | ||
九八式装甲運搬車 | 一式半装軌装甲兵車 | 一式装甲兵車 | 九四式撒毒車 | 九四式消毒車 | ||
砲兵用観測車 | 軌上装甲車 | ||
一〇〇式挺身観測車 | 九一式広軌牽引車 | 九五式装甲軌動車 | ||
自走砲 | |||
一式砲戦車 | 一式十糎自走砲 | 二式砲戦車 | 三式砲戦車 | 四式十五糎自走砲 | 短十二糎自走砲 | |||
装甲車 | |||
オースチン装甲車 | ウーズレー装甲車 | ヴィッカース・クロスレイ装甲車 | 海軍九二式六輪装甲車 | |||
試作戦車 | |||
試製一号戦車 | 試作中戦車“チニ” | 試製九八式中戦車 | 大型イ号車 | 特三号戦車 | 試製四式重迫撃砲 試製四式七糎半対戦車自走砲 | 試製五式四十七粍自走砲 | 試製加農砲戦車 |
|||
大日本帝国陸軍兵器一覧 |