中谷一郎
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中谷一郎(なかたに いちろう、1930年10月15日 - 2004年4月1日)は、日本の俳優。俳優仲間から、「ミンクさん」という愛称で呼ばれていた。本名、中村正昭。北海道札幌市出身。
早稲田大学文学部仏文学科を中退。1955年に俳優座に入団し、舞台のみならず、映画・テレビで存在感のある脇役として活躍。岡本喜八監督による「独立愚連隊」で、敵か味方か分らない軍曹に扮して、注目を集める。1969年、俳優座の大先輩・東野英治郎の誘いでテレビ時代劇「水戸黄門」に第1部から「風車の弥七」役でレギュラー出演。そのニヒルで渋い演技と存在感で人気を集め、東野が黄門役を引退した際、弥七役降板を申し入れたが、番組プロデューサーの逸見稔に「降りるなら番組自体を終わらせる」と強引に引き止められたエピソードがあるほどに、「水戸黄門」には欠かせない存在となった。その後も大腸癌、糖尿病などの病と闘いながら、弥七役として活躍したが、体調不良のため、第27部限りで降板。
また、必殺シリーズ第3弾となる「助け人走る」では、女好きの殺し屋・辻平内を演じ、コミカルな一面でも人気を博した。
昔、街で子供に「弥七だ」と声をかけられたことを「徹子の部屋」で話していたが、そのときに声をかけた子供が、実は石橋貴明だったというエピソードがある。(石橋本人談)
2003年に放送1000回を記念した水戸黄門の歴代キャストが集合した番組で中谷がVTR出演し、久々に姿を見せたがこれが事実上最後のテレビ出演となった。
2004年4月1日、咽頭癌のため73歳で死去。
目次 |
[編集] 出演作品
[編集] 映画
- 独立愚連隊(1959年)
- 暗黒街の対決(1960年)
- 独立愚連隊西へ(1960年)
- 暗黒街の弾痕(1961年)
- 顔役暁に死す(1961年)
- 用心棒(1961年)
- 暗黒街撃滅命令(1961年)
- 切腹(1962年)
- どぶ鼠作戦(1962年)
- 暗黒街の牙(1962年)
- 憂愁平野(1963年)
- 戦国野郎(1963年)
- 続男の紋章(1963年)
- 男の紋章 風雲双つ竜(1963年)
- ああ爆弾(1964年)
- 夕陽の丘(1964年)
- 眠狂四郎女妖剣(1964年)
- 怪談(1965年)
- 続網走番外地(1965年)
- スパイ(1965年)
- 網走番外地 望郷篇(1965年)
- 大菩薩峠(1966年)
- 眠狂四郎多情剣(1966年)
- 大殺陣 雄呂血(1966年)
- 兵隊やくざ 脱獄(1966年)
- 男の顔は履歴書(1966年)
- 日本暗黒街(1966年)
- 日本のいちばん長い日(1967年)
- ある殺し屋の鍵(1967年)
- 網走番外地 吹雪の斗争(1967年)
- 肉弾(1968年)
- 無頼 黒匕首(1968年)
- 人斬り(1969年)
- 赤毛(1969年)
- 極悪坊主 念仏三段斬り(1970年)
- 激動の昭和史 軍閥(1970年)
- 戦争と人間 第一部 運命の序曲(1970年)
- 激動の昭和史 沖縄決戦(1970年)
- いのちぼうにふろう(1971年)
- 無宿(1974年)
- サンダカン八番娼館 望郷(1974年)
- 新仁義なき戦い(1974年)
- 吶喊(1975年)
- 金環蝕(1975年)
- 不毛地帯(1976年)
- 姿三四郎(1977年)
- 北陸代理戦争(1977年)
- 柳生一族の陰謀(1978年)
- ダイナマイトどんどん(1978年)
- ブルークリスマス(1978年)
- 水戸黄門(1978年)
- 英霊たちの応援歌(1979年)
- 連合艦隊(1981年)
- 日本の熱い日々 謀殺・下山事件(1981年)
- 孫文(1986年、中国映画)
- 次郎物語(1987年)
- 大誘拐(1991年)
[編集] テレビドラマ
- ダイヤル110番(1957年、日本テレビ)
- 刑事(デカ)(1965年、フジテレビ)
- ザ・ガードマン第3話「黒いアスファルト」(1965年、大映テレビ室、TBS)
- 三姉妹(1967年、大河ドラマ第5弾、NHK)
- 水戸黄門第1部~第27部(1969年-1999年、TBS)
- 助け人走る(1973年、必殺シリーズ第3弾、朝日放送)
- 新幹線公安官(1977年、テレビ朝日)
- 江戸の鷹 御用部屋犯科帖(1978年、テレビ朝日)
- 鬼平犯科帳(1980年、テレビ朝日)
- 警視庁殺人課(1981年、テレビ朝日)
[編集] 吹き替え
[編集] 人形劇
- 西遊記(1988年)
[編集] 生前語っていた『水戸黄門』裏話
中谷は所属する俳優座の大先輩東野英治郎に誘われて水戸黄門に出演する事となったわけだが始まる直前「そう長くは続かないな…」とつぶやいていた。理由は本人曰く「いまさらやる必要があるものなのか」と疑問をもつほど古臭い代物であったこと、当時の東野が悪役専門であったため見る人がいないのではという不安、主題歌の「ああ人生に涙あり」のメロディが暗いの三点。しかし本人の不安に反し、東野黄門は第1部から部数を重ねるごとに視聴率が上昇していった。結果的には引き受けてよかったわけだが、中谷はなぜ続いているかについて「レギュラーとして出演する俳優は芝居をするな」と東野からアドバイスされたからだと明かしている。
中谷によると、最初は試行錯誤の連続だったから東野らレギュラー俳優も芝居をしていたが、第3部辺りになると東野が「長く続けるには芝居ばっかりしていたら飽きられる」とレギュラー俳優にアドバイスしていた。その結果、定番の印籠シーンが生まれた。また、中谷が演じた風車の弥七は、黄門一行がピンチになると風車形の手裏剣を悪人に投げつけて物陰から登場し、悪人達と大立ち回りを演じた末に一行を救うというパターンが定着する。東野は水戸黄門をライフワークにすると決めていた。定番シーンをやるべきだとアドバイスしていたわけだから、東野はかなり先を見ていたことになる。
因みに中谷は、東野が芝居をしない代わりに考え付いたものが、有名な「カッカッカッカッ…」という大笑いであると明かしている。