中国の貨幣制度史
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中国の貨幣制度史(ちゅうごくのかへいせいどし)
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[編集] 貨幣鋳造以前
殷・周では、子安貝の貝殻を貨幣としていた。このような貨幣を貝貨という。現在、買や財、貴といった漢字に貝が含まれているのはこの当時貝貨が使われていたためである。貝貨は春秋時代まで使われた。
[編集] 貨幣鋳造の開始
春秋戦国時代に入ると、青銅を鋳造して貨幣とするようになった。春秋戦国時代に使われた青銅貨幣は大きく分けて、以下の4種類ある。
- 布貨(ふか)
- 刀貨(とうか)
- 蟻鼻銭(ぎびせん)
- 貝貨のような形をしており、楚で用いられた。
- 環銭(かんせん)
- 円状の青銅板の中心に丸あるいは正方形の穴を空けた輪のような形をしている。戦国時代の後半から用いられ、秦を始め各地で用いられた。
また、この頃から金銀を通貨の代用品として高額の支払に用いる例が増えてくるが、孔子をはじめとする儒学者は重農主義・身分制重視の立場から、金銀による支払は商人の力を強化するだけで社会秩序を崩壊させるだけだとして強く批判した。儒教が国教化された前漢以後明に至るまで金貨・銀貨の発行がほとんど行われず、却って金銀による支払を厳しく規制した背景にはこうした思想的な問題があったとされている。
[編集] 半両銭と五銖銭
秦の始皇帝が中国をはじめて統一すると、各地でばらばらの貨幣が使われていた状況を改め、秦で用いられていた環銭の形に銭貨を統一することになった。秦で用いていた半両銭という環銭は中心の穴が正方形であった。以降東アジアでは基本的に銭貨というと、この円形で中心の穴が正方形のものとなった。半両銭には、半両という漢字が刻まれている。半両の両とは、重さの単位である。当時、1両は24銖(しゅ、1銖は約0.67グラム)であったので、半両銭の重さは12銖、すなわち約8グラムとなる。
前漢に入ると、秦の半両銭が重かったこともあり、軽めの銭貨が造られるようになった。これは、楡莢銭と呼ばれ、その重さは1銖のものもあった。文帝の頃になると、銭貨の量は増えたものの、軽くて質が悪化した。文帝は四銖銭の鋳造を開始した。さらに文帝は、政府以外のものが銭を鋳造することを許した。このとき、呉王劉濞とトウ通が四銖銭を大量に鋳造し、銭貨の流通が拡大した。その後景帝は、政府以外のものが銭を鋳造することを禁じたが、この禁令を犯して銭を鋳造するものは絶えなかった。なお、武帝以前の漢の貨幣はその重さが、半両(12銖)でもないのにかかわらず半両と刻まれていた。そのため、これらの前漢の銭も、重さにかかわらず半両銭という。
武帝は、半両銭の鋳造をやめ、新たに五銖銭を鋳造し始めた。さらに、銭貨の偽造を厳しく取り締まったので、ようやく民間による鋳造がおさまることとなった。五銖銭には、五銖という文字が刻まれ、重さもその名のとおり5銖あった。五銖銭はその後一時期を除いて、唐初頭まで用いられ続ける。
前漢から簒奪して、新を建国した王莽は、春秋戦国時代に用いられていた刀貨のような形をした契刀・錯刀を貨幣として造った。さらに9年に宝貨を定めて、契刀・錯刀・五銖銭の使用を禁止した。宝貨には、下のようにさまざまな材質のものが使われた。
- 金貨(1種類)
- 銀貨(2種類)
- 亀貨(亀の甲羅でできた貨幣、4種類)
- 貝貨(貝殻でできた貨幣、5種類)
- 銭貨(重量が12銖以下の青銅貨幣、6種類)
- 布貨(重量が15銖以上の青銅貨幣、10種類)
しかし、五銖銭に比べて不便であったため、民衆は五銖銭を使い続け、さらには五銖銭を密造するようになった。
結局、新が滅んで後漢が成立すると、五銖銭が再び公式に使われ始めるようになった。しかし、後漢末期以降の戦乱で、貨幣の品質は急落した。魏晋南北朝時代を通じて、銭貨の鋳造量は減り、さらに民間が勝手に鋳造するようなことも増えた。しかも、銭貨はますます小さくかつ軽くなっていった。このため、中国の貨幣経済は衰退した。このように、魏晋南北朝時代の銭貨で見るべきものは少ないが、梁の武帝は青銅でなく、鉄銭を鋳造させた。また北魏では金貨・銀貨が用いられた。また、大きめの銭を鋳造し、五銖銭10枚分として通用させるということも起きた。
戦乱の中から中国を統一した隋は、貨幣の統一を試みた。隋が鋳造した五銖銭でないものは没収されるようになり、この貨幣の統一は比較的成功した。しかし、隋はすぐに滅び、各地で再び戦乱が起き、その際には、粗悪な銭貨が流通するようになった。
[編集] 開元通宝とその模倣品
隋末の混乱を収めた唐は、当時流通していた銭貨が粗悪であることから、新しい貨幣を発行することにした。それが開元通宝であり、唐代の間ずっと開元通宝が鋳造された。開元通宝の重さは、2.4銖であった。もっとも、唐の1銖は1.55グラムであるから、開元通宝は3.73グラムとなり、3グラム強であった前漢の五銖銭よりやや重くなる。ここで注目したいのが、銭貨の名前は今までは、半両銭にせよ五銖銭にせよ重さ(ただし、必ずしも実際の重さではないが)が貨幣に刻まれていたが、開元通宝には、ただ開元通宝と書かれていただけであることである。これ以降、銭貨には重さを書かなくなった。また、開元通宝は唐の周辺諸国にも影響を与えた。たとえば、日本の和同開珎(珎は宝の異体字)も唐の開元通宝を真似て作ったものである。唐は、銅鉱の付近に開元通宝の鋳造所を作っていた。粛宗は、乾元重宝・重輪銭の鋳造を開始した。この2種類の貨幣は、開元通宝の約2倍しかなかったが、その価値は乾元重宝で開元通宝の10倍、重輪銭で50倍として通用させた。こうした高額貨幣の流通量増加により、インフレーションが発生し、人々は苦しんだ。結局、代宗のころには、乾元重宝も重輪銭も開元通宝と同じ価値とされた。そうなると、開元通宝より重い乾元重宝・重輪銭は用いられなくなった。
五代十国時代には、開元通宝のような銅銭が鋳造されたほか、閩・楚・蜀(前蜀・後蜀)では鉄銭も鋳造された。
北宋の創始者である趙匡胤は、開元通宝とほぼ同形・同重量の宋元通宝の鋳造を開始した。それとともに、各地の粗悪な銭貨の使用を禁止した。もっとも、鉄銭や唐以来の開元通宝はそのまま使用し続けることが許された(むしろ四川・陝西では遼・西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有・使用一切を禁じられ、代わりに鉄銭が強制的に流通させられた)。趙匡胤の後を継いだ太宗は、太平通宝・淳化通宝を鋳造した。淳化はこの当時使われていた年号であり、以降元号が変わるごとに、銭貨の名前とその銭貨に刻まれる文字が変わった。このときから清が滅亡するまで、中国王朝の発行する銭貨は、基本的に「元号名+通宝(あるいは元宝)」と名づけられ、鋳られた銭貨にその名を刻まれることとなった。北宋は、池州・饒州・江州・建州に銅銭の鋳造所を、卭州・嘉州・興州に鉄銭の鋳造所を設けた。北宋・南宋を通じての銭貨(宋銭)の鋳造量は歴代の王朝の中で最高のものとなった。だが、経済規模の発展が銅銭発行量を上回り、また日本をはじめとするアジアの国々が信用価値が高い中国の銅銭を輸入して自国で通用させたために、唐の後期から銭荒と呼ばれる極端な銅銭不足の事態が続き、宋朝一代の大量の銭貨鋳造も銭荒の防止には全く役に立たなかったと言われている。
[編集] 紙幣の成立
唐代から飛銭と呼ばれる手形が用いられていたが、北宋になると商人によって交子・会子と呼ばれる手形が使われるようになっていった。特に銅銭に比べて価値の低い鉄銭流通が強制された四川などでは、全国一律で同じ価値を持つ交子は他地域との交流には欠く事が出来ないものとなった。交子は仁宗の頃から、会子は南宋になってから政府によって発行されるようになった。これが世界で最初の紙幣である。しかし、後に大量発行されてインフレーションが発生した。また、当時は茶や塩の専売制度が行われており、生産地における専売品との引き換えに用いた茶引・塩引と呼ばれる手形も紙幣の代用品として用いられた。金は、北宋・遼の銭貨を用いていたが、海陵王の治世で、交鈔と呼ばれる紙幣が発行された。しかし、これも大量発行されてインフレーションが発生した。なお、これらの紙幣は使用できる年限が定まっており、期限を過ぎるとただの紙切れになってしまうものであった(期限前に役所に対して手数料を払う事で新しい紙幣に交換する事は可能であった)。
モンゴル帝国(後の元)は当初金・銀・銅銭が用いられていたが、オゴデイのころには交鈔を使い始めた。クビライが即位した1260年には中統元宝交鈔(通称・中統鈔)という交鈔が発行された。これは、以前の紙幣と違ってその有効期限を持たなかった。また、交鈔は補助貨幣ではなく、基本貨幣とされたのである。交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されている兌換通貨であり、元は決済上の利便性から紙幣の流通を押し進めた。しかし、南宋を征服して領土が拡大したこともあって、交鈔が大量に刷られたが、刷りすぎで交鈔の価値は下落した。
[編集] 銀の普及
1287年には中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔が発行され、併せてだぶついた紙幣の回収も行され、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値は下落し続けた。さらに、金銀との兌換も中止された。本来ならばこれによって、交鈔の価値が大幅に下がり、誰も用いなくなるはずである。しかし、当時塩は政府による専売制がしかれていた。塩といっても、政府から買うのであるから、政府が公式の通貨としている交鈔を用いなければならなかった。塩は生きていくには不可欠なものであるから、誰もが交鈔を必要とした。そのため交鈔がまったく廃れるということはなかった。
明では宝鈔という紙幣と銅銭を併用していた。また、金銀を貨幣として利用することは禁止され、更に1392年から1435年までは銅銭の使用も禁じられた。宝鈔は金銀と兌換できなかったので、その価値は徐々に下落した。そういったわけで、宝鈔が使い物にならなかったために、銀が通貨として用いられるようになっていった。金銀の貨幣としての利用を禁止していた政府も民間の流れに耐え切れず、税金の納付に銀を使うことを認めた。これは間接的に国家が銀を通貨として認めたこととなる。一方これによって生産能力が乏しかった銅銭の地位が宝鈔と銀によって低下して、永楽通宝などは日本などとの貿易決済などに回される事が多くなり、銅銭の発行自体が珍しくなった。清代も基本的に明代と同じような通貨政策がとられた。
[編集] 近代的通貨制度へ
[編集] 現在
中華人民共和国では紙幣と硬貨からなる人民元(元)が使われている。全体的に紙幣の比率が多い。また、台湾(中華民国)ではニュー台湾ドルが使われている。