三洋証券
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三洋証券株式会社(さんようしょうけん)は、かつて営業していた日本の証券会社である。1997年11月3日経営破綻。東京都中央区に本社を設け、国際証券(現在の三菱UFJ証券)、勧角証券(現在のみずほインベスターズ証券)などとともに、いわゆる「準大手証券会社」の一角を担っていた。
1980年代後半には、世界最大のディーリングセンターを建て、「ニュースステーション」に番組提供するなど、証券業界が活況に沸いたバブル期に積極経営で急速に業容を拡大していったが、東京証券取引所の1.8倍という巨大なディーリングセンターなどの積極的な設備投資はバブル崩壊後すぐに重荷へと変わり、早くから経営難に苦しむことになった。
それに追い討ちをかけるように、債務保証先でもある子会社「三洋ファイナンス」は、バブル期に行った不動産関連融資が不良債権化し負債が累積していたが、三洋証券自身がバブル期に行った積極投資のツケに喘いでいる状況であったため、早期に子会社を処分するだけの体力が残されていず、雪だるま式に債務が膨張するままに決断を先送りした。
1994年3月17日、大蔵省証券局主導の下、再建九ヵ年計画が策定された。 内容はメインバンクによる金利減免、大株主野村證券等による200億円の第三者割当増資引受けに加えて、奉加帳方式で生保からの200億円の劣後ローンを受け、9年間かけて不良債権を償却するものである。 しかしこれはすぐに画餅に帰した。不良債権を償却するにも三洋本体は1997年3月期まで6期連続の赤字で返済の目途は全く立たなかったからである。
やがて、急降下した自己資本規制比率を劣後ローン(会計上、自己資本に算入される)の期限延長を繰り返すことで凌いでいる状況は次第に誰の目にも明らかになっていった。免許制事業であった証券業は、自己資本規制比率120%を割り込むと大蔵省の業務改善命令が発動される。三洋証券は生保から借りた劣後ローンで水面ギリギリの迷走飛行を続けていた。
1997年春頃にはメインバンクが持ち合い解消へと動き始め、ついには「生保が劣後ローンの期限延長を断るのはいつか?」に衆目が集まるようになった。つまり「劣後ローン延長の中止」=「延命の中止(倒産)」である。元々、三洋証券とは関係のない生保各社は大蔵省主導の奉加帳方式に「嫌々参加させられている」立場であり、焦げ付く可能性の高い劣後ローン継続には否定的だった。1997年7月の交渉時には3ヶ月の延長しか認めず、さらに「早急の新再建案の提示」という条件付で、事実上の「最後通告」だった。
自力再建はもはや困難と考えた大蔵省は次の策として国際証券による救済合併を画策し、国際証券側も応ずる構えだったが1997年9月26日産経新聞紙上に計画がスクープされ水泡に帰した。「嵐に窓を開ける」ことになったた三洋証券は金融不況に全く抗うことができずに消えていった。
なお、三洋電機及び三洋信販とは無関係であった。
[編集] 沿革
- 1910年 「土屋鋭太郎商店」として創業。
- 1943年 法人改組。「土屋証券株式会社」として設立。
- 1944年 「日東証券株式会社」に商号変更。
- 1971年4月 湘南証券を吸収合併。
- 1971年10月 江口證券および大一呉証券を吸収合併、「江口日東証券株式会社」に商号変更。
- 1973年1月 「三洋証券株式会社」と商号変更。総合証券会社となる。
- 1973年5月 東京証券取引所・大阪証券取引所・名古屋証券取引所第2部市場に上場(使用していた証券コード:8605)。
- 1975年11月 上記3証券取引所の第1部銘柄に指定替え。
- 1997年11月3日 会社更生法の適用を申請し、経営破綻。
- 1997年11月4日 群馬中央信用金庫(現在のぐんま信用金庫)が三洋証券に貸し付けていた約10億円が焦げ付き、無担保コール市場が大混乱に陥る。
- 1998年3月13日 三井海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)が一部業務の承継を検討していたが、これを断念。
- 1998年6月24日 更生管財人により、経営再建を断念すると発表。
- 1998年8月31日 全従業員解雇。
- 1999年12月28日 破産宣告を受ける。
[編集] 外部リンク
- 日本銀行総裁談話・三洋証券について 1997年11月3日 - 三洋証券の経営破綻に関するコメント。