三木武吉
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三木 武吉(みき ぶきち、1884年8月15日 - 1956年7月4日)は日本の大正・昭和時代の政治家。
鳩山一郎の同志で、保守合同を成し遂げ自由民主党結党に導いた。
ちなみに三木武夫とは縁戚関係は無い。
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[編集] 政治家になるまで
明治17年(1884年)8月15日、香川県高松市に骨董商 三木古門の長男として生まれる。
高松中学2年の時、うどん食い逃げ事件の首謀者として退校処分となり、京都同志社中学に転じたが、乱闘事件を起こし放校される。星亨を頼り上京、星の法律事務所に書生として住み込むという日、明治34年(1901年)6月21日に星が暗殺されてしまう。
東京専門学校(現、早稲田大学)に入学。学友には大山郁夫、永井柳太郎、橋戸頑鉄(信)らがいる。新宿で女遊びに励む一方、野球や法律の勉強に懸命に取り組んだ。また、後に三木夫人となる天野かね子とのなれそめもこの頃である。明治27年(1904年)東京専門学校を卒業。
翌明治38年(1905年)に日本銀行に入行、門司支店に配属となるが、ポーツマス条約に反対する政府弾劾演説会に飛び入り参加し、桂太郎内閣退陣を要求する演説をして服務規定違反を問われ免職となる。明治40年(1907年)司法試験に合格、東京地方裁判所司法官補に任じられるが、宮仕えは性格にあわず、7ヵ月後、弁護士となる。同年、天野かね子と結婚。
[編集] 憲政会所属の政党政治家として
大正2年(1913年)牛込区議会議員に当選する。次いで衆議院議員総選挙に立候補するが、落選した。大正5年(1916年)憲政会に入党。大正6年(1917年)衆議院議員に当選する。衆議院議員に当選した三木は頭角をあらわし、特に舌鋒鋭く政府を批判し、「ヤジ将軍」の名を欲しいままにした。大正9年(1920年)6月29日から開会された第43議会で原敬内閣の高橋是清大蔵大臣が海軍予算を説明中「陸海軍共に難きを忍んで長期の計画と致し、陸軍は十年、海軍は八年の…」と言いかけたときに、「ダルマは九年!」のヤジは余りにも有名である。また、普通選挙をめぐり床次竹二郎内務大臣と論戦を展開し、浜口雄幸の目にとまる。大正11年(1922年)6月には、東京市議会議員にも立候補し当選。東京市政浄化を主張して市政革新同盟を結成し、政友会系の新交会と対決する。後に同志となる鳩山一郎は、新交会でこの時点では東京市政をめぐり政敵であった。大正13年(1923年)1月、当選2回、39歳の若さで憲政会幹事長に抜擢される。同年5月の総選挙で憲政会を指揮、憲政会は第一党となり、6月護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)による第一次加藤高明内閣が成立する。三木は、かねてから私淑していた浜口雄幸が大蔵大臣となったので浜口蔵相のもと大蔵参与官に就任する。昭和2年(1927年)には浜口を代表とする立憲民政党に参加する一方で、欧州視察にも出る。こうして三木の戦前における政治生活は絶頂を迎えるが、好事魔多しの喩え通り、昭和3年(1928年)京成電車疑獄事件に連座し、有罪判決を受け一時政界を去ることになる。
[編集] 引退、政界復帰、そして公職追放
昭和14年(1939年)報知新聞社長に就任。昭和17年(1942年)8月に読売新聞に買収合併される。同年衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)に非推薦で出馬し当選、政界に復帰する。この選挙では鳩山一郎も非推薦で当選している。戦争前は鳩山は政友会の、三木は民政党の幹部であり、お互いに敵同士であったが、今はともに軍部に抵抗する自由主義政党人として、鳩山と三木は将来の「鳩山首相、三木衆議院議長」を誓い合う。終戦後、三木は、日本自由党の創立に参画する。昭和21年(1946年)4月衆議院議員総選挙で自由党は第一党となる。鳩山内閣成立が現実のものとなるが、鳩山は組閣直前に、公職追放となり、吉田茂が自由党総裁となり内閣を組閣する。吉田は戦前、政党が軍部に恭順したことに嫌悪感を持っていたため、河野一郎幹事長や総務会長の三木ら自由党幹部に相談せず人事を決める。自由党執行部は激昂し、吉田総裁を除名すべしとの極論も出るが、三木は吉田首班を認めない場合、社会党に政権が行く可能性ありとして党内世論の沈静化に努めた。第一次吉田内閣成立の二日後、三木も昭和21年5月24日に公職追放となる。
[編集] 吉田内閣打倒、鳩山内閣誕生へ
昭和26年(1951年)6月24日公職追放令が解除されると、吉田打倒に動き出す。自由党に復帰するが、すでに自由党は吉田直系の「吉田学校」で固まっており、「鳩山復帰後は総裁を譲るという約束」は事実上反故にされ、鳩山、三木、河野らは新党結成を目指した。しかし、鳩山が脳溢血で倒れ、新党結成は頓挫、三木は自由党内での反吉田闘争に路線を変更する。三木は「寝業師」としてあらん限りの智謀を傾け反吉田闘争の先頭に立つ。これに対して吉田は政治顧問、松野鶴平のアドバイスで昭和27年(1952年)8月、抜き打ち解散を実施、鳩山派を揺さぶる。また、広川弘禅の入れ知恵で吉田は反党的言動を理由に石橋湛山、河野一郎の両名を自由党から除名した。総選挙の結果、自由党は第一党となり、第四次吉田内閣が成立する。鳩山派は党内野党ともいうべき「民主化同盟」(民同)を結成。池田勇人通商産業大臣の「中小企業の一つや二つ倒産し、自殺してもやむを得ぬ」と失言に対し野党から池田通産相不信任案が提出されると、鳩山民同は本会議を欠席し、不信任案を通過させ、池田は通産相を辞任した。12月、鳩山民同は補正予算案通過を背景に吉田執行部に圧力をかける。昭和28年(1953年)石橋、河野の自由党除名を取り消させると同時に、吉田側近の林譲治幹事長、益谷秀次総務会長を辞任させる。三木は益谷の後任の総務会長に就任する。三木は吉田体制の攪乱を謀り、吉田が後継者として緒方竹虎を念頭に置いていると吹き込み、広川弘禅を離反させることに成功する。2月28日吉田首相は、西村栄一の質問に対してバカヤローと発言。三木は、右派社会党の浅沼稲次郎と秘密裏に会談し、内閣総理大臣の懲罰動機を提出させる。また戦前派代議士である大麻唯男、松村謙三らに三木武夫を加えてこれらに根回しをして、さらに広川弘禅派30数名を本会議に欠席させ、懲罰動議を通過させる。さらに三木は渋る野党を説得し内閣不信任決議案を提出させる。三木は内閣不信任決議案を取引材料に吉田と会談し、辞職させるつもりだったが、吉田は会談を拒否し、鳩山民同22名は自由党を脱党。内閣不信任決議案に賛成投票する。3月14日、衆議院は賛成229票、反対218票で吉田内閣不信任決議案を可決した。さらに広川弘禅ら16名も脱党し、分派自由党を結成した。吉田は直ちに衆議院を解散(バカヤロー解散)した。選挙の結果は、自由党が23名減の199議席だが、依然第一党の地位を確保した。分派自由党は35議席にとどまった。選挙から半年後の11月に吉田・鳩山会談がもたれ多くは自由党に復党する。三木・河野・松田竹千代・松永東・中村梅吉・山村新治郎 (初代)・池田正之輔・安藤覚の8人は復党を拒絶し、日本自由党を結成、「八人の侍」と呼ばれる。 昭和29年(1954年)1月保全経済会事件が発覚する。さらにこの事件は、造船疑獄に発展し、自由党の佐藤栄作幹事長、池田勇人政務調査会長に疑惑が持たれる。この間、自由党、改進党、分派自由党が集まり、統一保守党結成に向けて各党代表者間で話し合いが持たれたが決裂。三木はこの機を逃さず、改進党の大麻唯男、三木武夫、自由党の鳩山一郎、岸信介と結んで反吉田の新党結成に乗り出す。11月に日本民主党結成、鳩山一郎総裁、岸信介幹事長、三木は総務会長に就任した。12月吉田内閣はついに総辞職し、第1次鳩山内閣が成立。「鳩山首相、三木衆議院議長」という三木の宿願の半分は達成された。だが、その後の総選挙の直後に行われた衆議院議長選挙では、日本民主党以外の党が一致して益谷秀次を統一候補をとして出したために、慣例では議長に就く筈の与党候補の三木は落選してしまい、宿願のもう半分は幻と消えた。
[編集] 保守合同、そして人生の終焉
昭和30年(1955年)4月13日に三木は保守結集を呼びかけそのために鳩山内閣が障害となるなら鳩山内閣総辞職も辞さないと発表する。三木は、日本社会党統一に危機を抱いていた。また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。三木は、党内合意を取り付けに動くと同時に自由党に工作を開始する。5月15日三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。大野は戦前以来の鳩山側近であったが、嘗ては鳩山とは敵対関係であった三木が鳩山の一番の側近に納まったことで居場所を失って鳩山の許を去ったと言う事情があり、三木が最も恨まれていた相手の一人であった。だが三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。これに対して民主党内では三木武夫・松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。議論がまとまらない中、鳩山首相は涙ながらに内閣総辞職を口走り、これに慌てた一同は保守合同に賛成することになる。しかし、最後に総裁に誰がつくかをめぐり自由・民主両党は議論が平行線をたどった。しかし、総裁を棚上げし、総裁代行委員を設置し、結党後、公選により総裁を選出することが決定された。こうして、保守合同にどうにかこぎつけることができた。こうして日本最初の統一保守党・自由民主党が結成された。三木は、鳩山、緒方、大野とともに総裁代行委員に就任。
昭和31年(1956年)7月4日死去。72歳。
[編集] エピソード
- 選挙中の立会演説会において、相手候補から「さる有力候補は愛人を3人も囲っている」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「さきほどの弱小候補が述べた愛人を囲っておる候補とは不肖わたくしであります」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに「先ほどの候補は3人と申しましたが、正しくは5人であります。それも今は年を取り役にたちませんがこれを捨てるに忍びず、現在も誰一人捨てた事がありませぬ」と反論した。その率直さが好感を呼んで選挙では当選を果たした。
- 「女3人も喧嘩させずに御させないで一国の総理になれるか!」と、男っぷり溢れる発言をしたり、松竹梅といわれた3人の妾を囲ったり・・・・ちなみにこれは、愛人のランクではなく、実際に名前が松子、竹子、梅子だった。松子には神楽坂で待合を持たせた。晩年も精力に衰えはなく、72歳で亡くなるときも愛人が5人いたという。