一乗寺下り松の決闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一乗寺下り松の決闘(いちじょうじさがりまつのけっとう)とは、慶長9年(1604年)に勃発した剣豪宮本武蔵と吉岡道場一門との戦争である。
目次 |
[編集] 因縁
21歳の時、京にのぼった武蔵は、名門として名高い吉岡道場の門を叩いた。門弟との試合では6人を倒し、そのうち2人が死んだという。 その後、天才剣士として名高い当主の吉岡清十郎、その弟の伝七郎が相次いで武蔵に挑むが、圧倒的な武蔵の剣腕の前に倒れ去る。武蔵の高名は京に鳴り響いたが、完全に面目をつぶされ、滅亡の危機に立たされた吉岡一門の憎しみは頂点に達し、武蔵一人を倒すことに執念を燃やす。 一門は、清十郎の子(吉川英治の『宮本武蔵』では清十郎・伝七郎兄弟の甥・源次郎という設定、また『二天記』などでは清十郎の嫡子・又七郎と記述されている)を名目人に立て、一門の命運を賭けて弓や鉄砲をも携えた100人近い門弟たちで決戦にのぞむことになる。その先頭に立ったのが先代吉岡拳法の実弟で、清十郎・伝七郎兄弟の叔父にあたる壬生の源左衛門であった。
[編集] 決戦前夜
- 「二天記」には「京洛東北の地 一乗寺藪ノ郷下り松ニ会シテ闘フ」と記されている。その決闘の地は洛北、修学院に近い一角だった。旧白川道の四つ角に「宮本 吉岡決闘之地」と刻まれた石碑と松の木が立っている。
- 武蔵は下り松にくだる途中、八代神社で神頼みを思い立ったという。しかし武蔵は、社殿の鰐口の緒に手を掛けようとしてはっと止めた。「サムライの味方は他力ではない。死こそ常常の味方である。サムライの道には、頼む神などない」と。神仏に頼ろうとした自分の弱さこそが問題だと思う。武蔵は後に、自戒の壁紙文「独行道」の一項に「仏神は尊し仏神をたのまず」と書き残した。
- 『二天記』では、武蔵の弟子たちも助太刀を志願したとされるが、武蔵はそれを拒否。単独で、果たし合いの場所に臨んだ。
- 一方、吉岡側は大将の幼い「名目人」に「門弟たちが闘うから、じっと下り松の根元に立っておればよい」と教えて中心に据え、軍備を整えた。名目人は言われたとおりに、白鉢巻に高く股立を取った凛々しい姿で下り松の根元に立ち、武蔵を待つ(これまでの闘いでは、武蔵がいつも遅れて現れるという戦法をとったことから、それに対する心構えも万全だった)。
[編集] 血戦
決闘の日、武蔵は約束の「一乗寺址下り松」に背後から山道を駆け下り、一気に吉岡の陣営を強襲した。このとき武蔵は刻限より早くに到着し、吉岡一門の様子を観察していたのだ。そして不意をついて一門の前に駆け出すと作法どおりに口上を述べ、下り松の根元に立っていた一門の「大将」を一刀のもとに斬り捨てた。 門弟たちは思わぬ展開に混乱も応戦し、激しい死闘となった。しかし圧倒的な兵力差(それどころは武蔵側は彼一人なのだが)にも関わらず、武蔵の修羅たる猛攻には歯が立たなかった。矢を刀で叩き落し、鉄砲を粉砕し、向けられた刀に斬り込んで行った武蔵の光景は後世、「彼の剣法には形も約束も極意もない。想像力と実行力が結びあって生まれた無名無形の剣なのだ」と伝わる。 混戦の後、吉岡陣営を蹂躙した武蔵はその場を立ち去って行った。こうして吉岡一門は雪辱を果たすこともなく、武蔵との三度に渡る闘いに敗れてしまう。この結果、吉岡一門は衰退し、柳生一族に剣術における最王手の座を明け渡すこととなる。
[編集] 二刀開眼
吉川英治の小説では、この時数十名の敵に囲まれていた武蔵は思わず両刀を抜き、初めて二刀流で闘ったとされている。しかし、鎖鎌の達人宍戸梅軒との結決闘時に開眼した説も強く、定説を見ない。