ルーズコート・フィールドの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルーズコート・フィールドの戦い | |||
---|---|---|---|
戦争: 薔薇戦争 | |||
年月日: 1470年 3月12日 | |||
場所: イングランド ラトランドのエンピンハム(Empingham) | |||
結果: ヨーク派の勝利 | |||
交戦勢力 | |||
ヨーク家 | ランカスター家 | ||
指揮官 | |||
エドワード4世 | ロバート・ウェリス卿 | ||
戦力 | |||
不明 | 30,000 | ||
損害 | |||
不明 | 不明 | ||
|
ルーズコート・フィールドの戦いは、薔薇戦争中の1470年3月12日に行われた戦闘である。
エッジコート・ムーアの戦いでの敗戦で捕獲されてから、エドワード4世が力を取り戻すのには1年以上かかった。 もう一度ウォリック伯はエッジコート・ムーアの戦い以前の、王の政策を行使も影響も与えられない立場に置かれた。 ウォリック伯はまだ王弟にあたるクラレンス公ジョージ(ウォリックにとっては義理の息子)を王位に就かせるつもりだった。 そうなったら自分が思うように国政を動かせると思ったからだ。
1470年、ウォリックのはとこのロバート・ウェリス卿が王に反旗を翻す時に彼に目を留め、助けを求めてきた。 ウォリック伯はもう1つの反乱計画である、エドワード4世を殺すか退位させるかする時期が来たと考えた。
ウェリス卿は王に対抗する軍隊の準備のため、地元であるリンカーンシャーで兵士を集め始めた。 リンカーンシャー州での不穏な動きが、王の行動を促した。国王エドワード4世は3月4日に兵を集め始めたのだ。 国王のリンカーンシャーへの派兵の知らせは、地元のパニックを引き起こした。 ウェリス卿の勝手な誤解で、「王は公式に許されたはずのエッジコート・ムーアの戦いの時の反乱軍を裁きに来る」といううわさが広まった。 ウォリック伯とクラレンス卿の激励で、ロバート・ウェリス卿は自らを奮い立たせ、リンカーンシャーの人々の「偉大な指導者」となった。 3月4日、周囲の土地に「全ての男子は国王に抵抗するために反乱軍に合流すべし」と要請する召喚状が届けられた。 7日、王は反乱軍が地元の州(特にヨークシャー)から募った10万の軍を引き連れて、スタンフォードに向かって進軍しているということを耳にした。 王は後にクラレンス公とウォリック伯から、「10万の軍はさらに兵力を増強するために南下しているのだ」と述べた手紙を受け取った。 王は疑いもせずにウォリック伯に自分の精兵の兵権を与えた。 エドワード4世はそれから「反乱軍がレスターに進路を変更した」という知らせを受け取ったので、ウォリック伯とクラレンス公は王に疑われる事なく「スタンフォードの反乱軍攻撃」という名目で王から離れる事ができたのだ。
ロバート・ウェリス卿は王から手紙を受け取った。そこにはウェリス卿に、反乱軍の解散を求めており、さもなくば彼の父親(エドワード4世の陣の囚人)を処刑すると書かれていた。 ウェリス卿はすぐさま軍をスタンフォードに向けた。 ウェリス卿がウォリック伯とその精兵と合流し損ねた事によって、エドワード4世の信頼は増した。
エドワード4世の偵察は、彼に反乱軍がスタンフォードからおよそ5マイル、ラトランドのエンピンハムと呼ばれる場所で戦闘配備されたということを知らせた。 エドワード4世はウェリス卿の正面に戦線を配備し、両軍の間で双方から見えるようにウェリス卿の父親を処刑した。 この行為が反乱軍の「ウォリックはどうした!」「クラレンスはどうした!」という叫び声とともに反乱軍(この時点で約3万の軍勢)の心に火をつけた。 砲弾の弾幕が発射され、次にエドワードは彼の兵を敵に向かって突撃させた。 この突撃軍の指揮官が敵に到達さえしないうちに、反乱軍の前線は崩壊した。反乱軍は王の精兵に対面する前に四散し、撤退した。 ウェリス卿の多くの兵が着ていた制服の上着は、ウォリック伯とクラレンス公に援助された揃いの制服であった。反乱軍の総崩れが始まった時、反乱軍の兵たちはそのような「反乱軍の証拠」を身につけたまま捕まる事を恐れて、制服を脱ぎ捨てていった。そのため、この戦闘は「ルーズコート・フィールド(Losecote Field):捨てられた上着の丘」の戦いと言われるようになった。
ロバート・ウェリス卿と彼の部隊の指揮官であるリチャード・ウォーレンは、2人とも総崩れの時に捕らえられ、1週間後に処刑されている。