マーティン・ブランドル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | イギリス イングランド |
活動年数 | 1984 - 1989 , 1991 - 1996 |
所属チーム | ティレル, ザクスピード, ウィリアムズ, ブラバム, ベネトン, リジェ, マクラーレン,ジョーダン |
出走回数 | 158 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 98 |
表彰台(3位以内)回数 | 9 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1984年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1996年日本GP |
マーティン・ブランドル(Martin Brundle , 1959年6月1日 - )は、イギリス生まれの元F1ドライバー。
F1において「優勝・ポールポジション・ファステストラップ」の全てを記録したことがないドライバーでは最多出走回数を誇る。F1でのラップリーダー(レースで先頭を走ること)経験もなく、後述するようにF1参戦前にアイルトン・セナと激しい戦いを繰広げたことを思うと、どこか地味な印象の強いドライバーであった。
F1引退後は、英ITVでF1解説者として活躍している。
[編集] 経歴
1977年にフォーミュラカーに転向、1981年からイギリスF3に参戦。1983年にはアイルトン・セナと最終戦までチャンピオンを争うが、惜しくも敗れることとなった。
翌1984年にティレルからF1にデビュー。デビュー戦5位、デトロイトで行われたアメリカ東GPでは2位初表彰台を記録するなど新人離れした走りで注目を浴びるが、シーズン途中で負傷しドライバーの座を失った上に「水タンク事件」(詳細はティレルを参照)の影響を受けて全結果を剥奪される憂き目を見る。復帰後も表彰台には届かない成績が続いた。
1988年と1990年にはF1を離れた(ただし1988年はウィリアムズから1戦のみ参戦)。離れた延べ2年間ではデイトナ24時間レースやル・マン24時間レースといった著名なレースに優勝する。
1991年にブラバムでF1に本格復帰、悲惨な状態だった末期のブラバムで2ポイントを獲得した。この年からの6年間で、F1キャリアで獲得したポイントの多くを獲得している。しかし「そこそこの実力」を持ちながらどこかインパクトに欠けるブランドルは、1年で次々とチームを移ることになる。
1992年にはベネトンのシートを獲得し、初めて競争力のあるマシンで参戦する機会を得て、久しぶりの表彰台を含め、9戦連続入賞の離れ業を達成する。母国イギリスではF3時代にセナと覇を競ったシルバーストーンサーキットでセナをオーバーテイクするなどの活躍を見せた。しかし既に同僚のミハエル・シューマッハがチーム内で確固たる地位を確立しており、ブランドルはいかにも「職人」で「玄人好み」な雰囲気をかもしだしながらも、地味な印象が拭えなかった。結局翌年にリカルド・パトレーゼがチームに移籍してくることが決定すると、ブランドルはベネトンを離れることとなった。
翌1993年にはリジェに移籍、サンマリノGPでの3位入賞やフランスGPでの予選3位など、1991年にもブラバムでチームメイトだった同胞マーク・ブランデルとともに活躍したが、やはり翌年のシートはなかなか決まらず、1994年のマクラーレンのシートは、開幕直前の2月末で決定したものであった。 1995年にはリジェに復帰したが、既にオリビエ・パニスのチームメイトは、エンジン供給先の無限との関係で鈴木亜久里が先にシートを得ていたものを、ジャガーのスポーツカーレース時代から縁のあるトム・ウォーキンショウに強引にねじ込んでもらいシェアするというものであった。
この間にもそこそこの活躍を見せ安定した速さを発揮するものの、何れも所属したチームが中堅グループであったこともあって継続的な活躍はできず1996年にジョーダンに移籍。そしてこの年を最後に、長きに渡ったF1でのキャリアに終止符を打った。
[編集] こぼれ話
1991年、チームメイトのマーク・ブランデルとコンビを組むが、2人の名前が非常に似ていたことが当時日本で話題となった。2年後の1993年には再びチームメイトとなり、1度ならず2度コンビを組んだことで更に注目されることとなる。当時実況を担当していた1人古舘伊知郎から「アナウンサー泣かせ」と言われていた他、1993年の開幕前のポール・ポジションでは、ドライバー紹介の前に、漫才舞台の横に「ぶらんどる&ぶらんでる」とお笑いコンビのように表記された絵を登場させるネタも見られた。
なお、この2人は現在(2006年)、共同でドライバー育成プログラムを運営しており、明日のF1ドライバーを育てている。