ホワイトプレインズの戦い
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ホワイトプレインズの戦い(英名:Battle Of White Plains)は、アメリカ独立戦争の戦いの一つ。
ロングアイランドの戦いで大敗を喫したジョージ・ワシントンの率いる大陸軍が、ハウ (Howe)将軍の率いるイギリス軍と大敗後、初めての大規模野戦対峙を行った。
独立戦争時は、ホワイト・プレインズ (White Plains, 現ニューヨーク州) は湿地帯であり、主な戦闘は川沿いの丘の麓で行われた。
太平洋戦争時の米国海軍護衛空母であるホワイト・プレーンズ (CVE-66) はこの戦いにちなむ。
[編集] 会戦までの経過
ロングアイランドの戦い(1776年8月22日-30日)で大陸軍を大いに破ったイギリス軍は、マンハッタン島に進攻した(1776年9月15日)。同日中にイギリス軍はニューヨーク市を占領、大陸軍はマンハッタン島北に逃れた。 マンハッタン島北部のハーレムの戦い(1776年9月16日)で、マンハッタン島北端のフォート・ワシントン (Fort Washington) の陣地(ホワイト・プレインズの戦い後、1776年11月16日に陥落)を攻めあぐねたイギリス軍が、大陸軍の後背を突いて野戦で決着をつけるために Throg Neck (現Throg Neck橋近辺)に10月12日に上陸し、北上して現在のScarsdale からホワイト・プレインズの一帯でジョージ・ワシントンの率いる主力と対峙した。
なお、北上作戦開始直前に現ニューヨーク市Pelham Bay Park付近に上陸したイギリス軍部隊と大陸軍の小競り合いであるペルハム(Battle of Pelham)の戦い,又はペルズ・ポイントの戦い(Battle of Pell's Point)と言われる物が、1776年の10月18日に起きた。この戦いは前哨戦であるが、イギリス軍の上陸を察知したジョージ・ワシントンは既に本隊を内陸に退却させており、双方の本隊は参加せず、イギリス軍部隊と大陸軍守備隊との間のみの戦闘となった為、ホワイト・プレインズの戦いとは、別の戦闘として数えられる事が多い(下記の犠牲者数も、ペルハムの戦いの数字は含まれていない)
本格的な戦闘は、大陸軍の陣地の一つである Chatterson Hill の陣地(ジョージ・ワシントンの本陣は目と鼻の先である川を挟んだ隣の丘の麓にあった Jacob Purdy House)で1776年10月28日に行われ、戦闘後に大陸軍は Chatterson Hill の陣地を撤退をした。
11月に入ると、大陸軍は北にあるノース・キャッスル (North Castle) にまで撤退したが、イギリス軍は援軍と補給待ちのため追えず、マンハッタンに撤退した。
- イギリス軍の戦死/負傷者:230前後
- 大陸軍の戦死/負傷者:130 前後
[編集] 歴史的意義、評価など
戦術的には、ブロンクス川の南側に位置する Chatterson Hill の陣地を奪ったイギリス軍の勝利とされる。 しかしながら戦死/負傷者の単純計算では、イギリス軍の犠牲の方が多いという数少ない戦いでもある。
戦略的な評価は分かれる。
当初の目的であるフォート・ワシントンは11月16日に孤立して陥落し、イギリス軍のマンハッタン島及びニューヨーク市の戦時支配が固まったため、短期戦略的な観点ではイギリス軍の勝利と言える。
ただし、双方あわせて3万を超える主力軍同士の対峙でありながら大陸軍側に決戦を強いる事ができず、ホワイトプレインズを見下ろすブロンクス川南側の丘の占拠だけでイギリス軍の作戦が終わったことは、大陸軍側のニューヨーク市を除くニューヨーク州の支配を固める事となった。また、ニューイングランド (New England) に通じる道を実効支配できなかったため、陸路よりイギリス軍がニューイングランドに進撃する事はできなくなった。
これによりジョージ・ワシントンは、11,000の兵をニューヨーク市の北郊外に残し、自らは2,500の兵を率いてニュージャージー州に転戦する事になる。
米陸軍士官学校としても有名なウェスト・ポイント (West Point) 要塞は、この時期にイギリス軍の陸軍及び海軍の北上を阻止する拠点として強化された。
翌1777年のサラトガの戦い(Battle Of Saeatoga)に依って、カナダからの陸路の侵攻の道も絶たれると植民地諸州をニューヨークで分断するイギリス軍当初の作戦は完全に不可能な物となった。
また、後にホワイトプレインズが郡都となるウエストチェスター郡は、パリ条約 (1783年) までイギリス軍と大陸軍の勢力圏の緩衝地帯として存在した。