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ベーブ・ルース

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ベーブ・ルース、ニューヨーク・ヤンキース

ベーブ・ルースことジョージ・ハーマン・ルース“Babe”George Herman Ruth, 1895年2月6日* - 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国メジャーリーグプロ野球選手であるとともに国民的なヒーローでもある。最初に野球殿堂入りを果たした5人中の1人で、ホームラン50本以上のシーズン記録を初めて立てた選手でもある。1927年に記録したシーズン60ホームランの記録は、1961年ロジャー・マリスによって破られるまで、34年間最高記録であった。

目次

[編集] 幼年期

ベーブは、メリーランド州サウス・ボルティモア、エモリー通り216番地に生まれた。ドイツ系移民の母方の祖母、ピウス・シャンバーガーは室内装飾業で厳しい家計を賄い、借家に暮らした。ベーブの両親、ケイトとジョージ・シニアは、カムデン通り沿いで酒場を自営し、その2階で暮らした。ケイトは8人の子供の出産の度に、2ブロック半先の父親の家に駆け込んだ。残念なことに幼年期を迎えることができたのは、ベーブと妹のメアリーのみである。

少年時代のベーブは、遠まわしにいっても腕白坊主であった。学校をサボっては通りをうろつき、非行に手を染めた悪ガキで、7歳ごろには両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という名の矯正学校に送られた。そこで、ローマ・カトリック神父、ブラザー・マシアスと出会い、野球を教えられたことがベーブの少年時代に決定的な影響をもたらすことになる(以後、生涯にわたってルースはマシアスを恩師と仰いだ)。ルースは、矯正学校の野球チームでは肩の強さから最初は捕手、後に左腕投手として活躍し、ボルチモア・オリオールズ(当時はマイナーリーグチーム)のオーナー兼監督のジャック・ダンに目をつけられた。ジャックは、後にルースを見出した男として名声を得ることとなる。1914年、ダンは19歳になったルースとピッチャーとして契約を結び、フロリダ州の春季キャンプに彼を帯同した。ルースはチームの主力として力強いパフォーマンスをバットとボールで演じる一方で、早熟な才能と子供っぽい人となりから「ダンのベビー」と呼ばれた。同年4月22日、ベーブはプロ野球の公式戦に初登板し、インターナショナル・リーグのバッファロー・バイソンズ相手に被安打6、6対0で勝利した。

ルースの初シーズン半ばまでオリオールズはリーグ首位を独走し、7月4日時点で47勝22敗と25ゲームの貯金を作った。しかしながら、チームの財政状態が芳しくなかった。1914年、フェデラル・リーグが分裂し、叛旗を翻したメジャー・チームがボルティモアに移転してきた(たった2年しか続かなかったが)ことから、競争によりオリオールズの存立基盤が揺らいだ。その結果、ダンは金銭トレードでスター選手を放出することを余儀なくされた。ルースとの契約権は、他の2選手のものとともにボストン・レッドソックスのオーナー、ジョゼフ・ランニンに対して、一説によれば2万ドルから3万5千ドルで譲渡された。

ボストン・レッドソックス時代
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ボストン・レッドソックス時代

[編集] レッドソックス時代

ルースは好投手であったが、レッドソックスの先発投手陣の左腕の駒は豊富だったため、登板機会は少なかった。1勝1敗の記録のまま数週間をベンチで過ごした後、レッドソックス傘下のマイナーチームで、インターナショナル・リーグ所属のプロヴィデンス・グレイズに降格となった。ルースは、若い投手カール・メイズとともにグレイズの優勝に貢献した。シーズン終了後、レッドソックスは再びルースを昇格させ、以後彼は引退までずっとメジャー・リーグに在籍することとなる。この後、しばらくしてからルースはボストンで出会ったウェイトレスのヘレン・ウッドフォードにプロポーズし、1914年10月14日にボルティモアで結婚した。

翌シーズンのオープン戦で、ルースはレッドソックスの先発投手の地位を固めた。復調なったスモーキー・ジョー・ウッドらの投手の踏ん張りで、レッドソックスはペナントを制した。ルースも18勝8敗の好成績で、バッティングでも自らを助け、打率.315、ホームラン4本(自身メジャー初)を放った。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ビル・カリガン監督が右投手好みであったことから、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。

1916年、ルースはローテーション投手に返り咲いたが、チームの攻撃力は、主力のトリス・スピーカークリーブランド・インディアンスへ移籍したことにより弱まっていた。ややこころもとないオープン戦ではあったが、今期のルースはアメリカン・リーグの最優秀投手の呼び声が高かった。防御率はア・リーグ最高の1.75で、リーグの平均防御率を大幅に下回っていた。23勝12敗9完封勝利であり、これはレッドソックスの左腕投手の記録を塗り替えるものであった。投手陣の踏ん張りで、軽量打線のレッドソックスは再びワールドシリーズに進出し、ルースは14イニング無失点の成績で、ブルックリン・ロビンス(現在のドジャース)を4勝1敗の成績で破った。

続く1917年にもルースは大活躍を見せ、24勝13敗の成績であったが、レッドソックスは100勝を上げたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、3シーズン連続のプレーオフ進出はならなかった。ただし、ここで特筆すべきは、ルースが徐々に強打者としての片鱗を見せ始めたことであり、打率.325、安打数40のうち11本の長打を放っている。

ルースは、常時出場するスターティングメンバーとするほうが価値があることは誰の目にも明らかであった。1918年には、野手としての出場が増え、登板機会は減った。ルースと同時代を生きた選手たちはこのことを馬鹿げたことだと考えていた。例えば、かつてのチームメートであるトリス・スピーカーはこの転向が、ルースの選手生命を縮めたと見ている。1919年までにルースは基本的には先発の野手となり、出場130試合のうちわずか17試合しか登板していない。その年、レッドソックスの球団記録を更新する29ホームランにより自身初めての本塁打王を獲得するとともに、打率.322、114打点の成績を残した。この猛打の噂は瞬く間に広がって、ルースのプレーを一目見たさに大観衆がつめかけた。ルースの名声が高まるとともに、彼の胴回りも広がるのであった。オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚き、1919年には、彼の肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿からよく知られるとおりの丸々と太った体型に変化していた。酒樽のような上半身に対する筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、走者としても野手としても問題はなかった。ライバルであるタイ・カッブは後に、ルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

ルースの絶大な集客力にもかかわらず、レッドソックスの経営状態は芳しくなかった。オーナーのハリー・フレーズは、最高の選手を集めたいとの欲望から戦時中も相対的に高額の年俸を支払っていた。しかし、チームが1919年のワールドシリーズに敗れ、フレーズ自らも劇場興行で失敗したことから、倒産を避けるため年末までには、資金の入手を必要とした。オーナーの唯一の資金源は選手であったため、有力選手を、当時万年2部チームであったニューヨーク・ヤンキースに譲渡することとした。総額12万5千ドル及び30万ドル以上の負債(本拠地フェンウェイ・パークも抵当に入っていた)の肩代わりに、ルースはヤンキースに譲渡された。1920年1月3日のことである。そしてこれが、長らく言われる「失敗トレード」となり、長くワールドシリーズを勝てないジンクスが生まれ、「バンビーノの呪い」と揶揄される原因となった。

[編集] ヤンキース時代

ルースは、移籍後ただちに投資に見合っただけの活躍を始めた。冬季にいつもながらハードトレーニングで体を苛めて、春には良いコンディションで臨んだ。シーズンが開幕すると、バッター有利のポロ競技場になじんで、まもなく本塁打の自己記録を更新することとなった。ブラックソックス事件(シカゴ・ホワイトソックスの八百長行為)の噂が徐々に広まり、ルースは対戦相手の投手を威圧し、かつてないほど素晴らしい打撃成績を打ち立てた。 最年少記録での54本塁打に加え、打率.376(リーグ4位)、137打点150得点(いずれもリーグ首位)、並びに150四死球により出塁率は5割を超えた。盗塁は14を数え、驚異的な長打率.847は、バリー・ボンズ2001年に更新するまで、およそ80年間以上誰にも破られなかった。驚異的な成績を残した1920年に続き、翌年もほぼ同様の成功を収める。152試合出場で打率.376、171打点、177得点、長打率及び出塁率も1920年をわずかに下回るだけの数字であった。さらに驚くべきことに3年連続で本塁打数を伸ばし、59本を打った。投手のカール・メイズ、ボブ・シャウキーらとともに、打撃陣のルースやボブ・モーゼルの活躍で、ヤンキースはワールドシリーズに初出場したが、ニューヨークのライバル、ジャイアンツに3勝5敗で敗れた。なお第4戦で、ルースはプレーオフでの初ホームランを放った。

1921年に、ルースはコロンビア大学に打撃に関する研究のため招かれた。その結果は、素晴らしいものであった。研究者は、ルースが最も強打できるコースは外角ひざ上の高さであることを発見した。さらに、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートルで、ボールの飛距離は140から150メートルに達するということである。異なるサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくという根気に関する臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。ルースの目は、暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応した―これは、投手の手から投じられたボールの見極めに極めて有効であった。科学は、野球ファンならば周知の次の事実について確証を与えた。すなわち、ベーブ・ルースは、超自然的な能力を生まれつき持っているという事実である。このことをチームメートのジョー・デュガンは、「生まれた?何をいってるんだい。奴は木から落っこちて来たのさ」と表現している。

ワールドシリーズ出場により、ルースには問題が生じた。伝統の凋落によりその意義を失うことを避けるために、プロ野球機構はワールドシリーズ出場選手がシーズンオフにエキシビジョンゲームに出場することを禁じたのである。ルースは、特にこのルールに反発して、いつもどおり他の2名のチームメートを伴って儲かる地方巡業を挙行した。ケネソー・マウンテン・ランディスコミッショナーは、反抗的な選手に対し業を煮やして、ルースについては波乱含みとなる1922年のシーズン開幕から6週間の出場停止を命じた。ルースがチームに合流すると、ヤンキースの上層部は、彼をチーム初のキャプテンに指名した。その5日後の5月25日に、3回の審判の判定に対する抗議により退場となり、さらに野次る観客のスタンドへよじ登ったことで事態は悪化した。キャプテンの地位は剥奪され、1922年中にはさらに審判の抗議により3度も出場停止処分を受けるなど、ルースの攻撃的な性格が際立つこととなった。

ルースは、プロ入り後初めての挫折に見舞われると同時に、私生活においても徐々に不幸が忍び寄った。妻のヘレンは、ベーブが浸る華やかな生活が好きになれず、ボストン近郊の農場で養女のドロシーと暮らしていた。ルースは、妻の目がないのをいいことに、さらに華やかな生活を謳歌した。数年間止むことなく、美食を好み、美酒に酔い、放埓なナイトライフを楽しんだ。彼が「ビッグ・サナバビッチ」と呼ばれたのはこのためである。

1929年1月11日の火災によりヘレンが焼死した。その数年前から別居はしていたが、カトリック信徒であるため離婚はしていなかった。ヘレンが亡くなったころ、ルースはクレール・メリット・ホジスン(野球殿堂入りの強打者であるジョニー・マイズの親戚に当たる)という名の社交界の未亡人に執心しており、4月17日には結婚することとなる。彼女とは、生涯を供にした。クレールは、洗練され何処か物堅いところのある女性で、他のどの女性も管理できなかった自由奔放なホームラン王の足を地につけさせた。

寸暇を惜しむかのような破天荒な生活は、グラウンド上のプレイにも影響を与え始めた。打撃面では打率、出塁率、長打率ともに急降下し(とはいっても、順に.315、.434、.672と決して悪くはない)、本塁打数も35本とフィラデルフィア・アスレチックスのタイリー・ウォーカーにわずか2本及ばず、野手となってから初めてタイトル獲得を逸した。彼の不調はワールドシリーズになっても改善せず、ヤンキースは4敗1引き分けでジャイアンツに再び惨敗を喫し、個人成績も17打席でわずか1単打と1二塁打と振るわなかった。

1929年に、ヤンキースは背番号制を導入した。当時は打順を現しており、3番を打っていたルースは背番号も3とされた(ちなみに4番はルー・ゲーリッグ)。その後、背番号は打順とは無関係のものとなったが、ベーブ・ルースは3番を背負い続けた。しかし、1934年のシーズンオフに、ルースは監督兼任でヤンキースに残りたいとフロントに訴えたが、フロントはこれを認めず、監督をやりたいのならまずファームで実績を残せと言われたため、交渉は決裂、ルースはナショナル・リーグのボストン・ブレーブス(現・アトランタ・ブレーブス)に移籍した。

  • 1920年 - 1923年 驚異的な成績を残す。
  • 1925年 - "全世界のファンからの不評"
  • 1926年 - 好調を取り戻す。
  • 1927年 - 本塁打60本、 "破壊的な強力打線"(殺人打線と呼ばれた)
ベーブ・ルース(左)とジョージ・H・W・ブッシュ
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ベーブ・ルース(左)とジョージ・H・W・ブッシュ

[編集] 予告ホームランの真偽

1932年のワールドシリーズのヤンキース対シカゴ・カブス第3戦において、ルースは球史に残る有名な投球前の"予告"ホームランを放った。1945年のインタビューで語られたところによると、ワンストライクで1本指を、ツーストライクで2本指を指し、その後外野フェンスを指差し、第3球目は、スタンドに飛び込んだという。

ルースの第二打席の本塁打については疑義がない(次打者のルー・ゲーリッグも本塁打を放った。ある記者はその状況を「雷のあとは稲妻」と記述している)。長年に渡って論争の的となってきたのは、本当にルースはスタンドを指差したのか?という疑問である。対戦相手のカブスの投手、チャーリー・ルートは、ルースの"予告"ホームランを真っ向から否定しており、ルースにはブラッシュボールを投じた点を指摘している(ルートのあだ名は、よく打者にぶつけることから「チンスキー」であった)。しかしながら、ルートには投球時にわずかに振り向くという癖があり、他の出場選手は、ルートは単にベーブの動作を見逃しただけでなはいかと証言した。ホームランに関する公式のフィルムはない。スタンドで観戦していた観客の撮影した家庭用フィルムを見ても、真偽は不明である。ただし投手方向に向かって指をさしている姿は確認できる。

[編集] 晩年

ボストン・ブレーブスに移籍した1935年、ルースは40歳を迎えており、この年が現役最後のシーズンとなった。同年5月25日ペンシルバニア州ピッツバーグのフォーブズフィールド(当時パイレーツの本拠地)の対ピッツバーグ・パイレーツ戦において、ルースは、39年間最高記録であった生涯最後の第714号ホームランを放った。この後にヒザを故障し、そのまま引退となった。

引退後のルースは伝記でもさほど書かれていないが、1936年野球殿堂入りの最初のメンバーのひとりとしてセレモニーに出席したことや、1939年の、かつてのチームメイトであるルー・ゲーリッグの引退式に出席したこと、またゲーリッグの死後に作られた映画、「打撃王」で、ルース本人の役として出演したことが挙げられる。

1948年6月13日にヤンキースは、ルースの背番号3をチーム史上2番目の永久欠番に指定した(ちなみに第一号はルー・ゲーリッグである)。この欠番セレモニーでのルースは、癌による闘病生活を送っていた最中で、医者に支えられる形での登場となり、これが公に見せた最後の姿となった。このセレモニーの2ヵ月後の8月16日に、ルースは癌の悪化によりニューヨークの病院で没した。享年53、まだ早い死だった。葬儀は思い出深いヤンキー・スタジアムで執り行われた。現在、ニューヨークのホーソーンにあるゲイト・オブ・ヘヴン墓地に彼の墓がある。ちなみにヤンキースの後輩であるビリー・マーチンも同じ墓地に眠っている。

通算本塁打714本は不滅の記録といわれたが、ハンク・アーロンに破られた。しかし、通算長打率.690と通算OPS1.146は現在も破られていない世界記録である。ボルティモア・ダウンタウンのエモリープレース216(カムデンヤードの北西2ブロックのところ)にべーブルース記念館がある。

[編集] 生涯成績

[編集] 打撃部門

試合数 打数 安打 二塁打 三塁打 本塁打 得点 打点 四球 三振
2,503 8,399 2,873 506 136 714 2,174 2,213 2,062 1,330

[編集] 投手部門

登板試合 先発 完投 完封 セーブ 投球回数 与四球 奪三振
94 46 163 148 107 17 4 1,221.1 441 488

[編集] 年度別打撃成績

年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 四球 三振 打率 出塁率 長打率
1914 BOS 5 10 1 2 1 0 0 2 0 0 4 .200 .200 .300
1915 BOS 42 92 16 29 10 1 4 21 0 9 23 .315 .376 .576
1916 BOS 67 136 18 37 5 3 3 15 0 10 23 .272 .322 .419
1917 BOS 52 123 14 40 6 3 2 12 0 12 18 .325 .385 .472
1918 BOS 95 317 50 95 26 11 11 66 6 58 58 .300 .411 .555
1919 BOS 130 432 103 139 34 12 29 114 7 101 58 .322 .456 .657
1920 NYY 142 457 158 172 36 9 54 137 14 150 80 .376 .533 .849
1921 NYY 152 540 177 204 44 16 59 171 17 145 81 .378 .512 .846
1922 NYY 110 406 94 128 24 8 35 99 2 84 80 .315 .434 .672
1923 NYY 152 522 151 205 45 13 41 131 17 170 93 .393 .545 .764
1924 NYY 153 529 143 200 39 7 46 121 9 142 81 .378 .513 .739
1925 NYY 98 359 61 104 12 2 25 66 2 59 68 .290 .393 .543
1926 NYY 152 495 139 184 30 5 47 150 11 144 76 .372 .516 .737
1927 NYY 151 540 158 192 29 8 60 164 7 137 89 .356 .486 .772
1928 NYY 154 536 163 173 29 8 54 142 4 137 87 .323 .463 .709
1929 NYY 135 499 121 172 26 6 46 154 5 72 60 .345 .430 .697
1930 NYY 145 518 150 186 28 9 49 153 10 136 61 .359 .493 .732
1931 NYY 145 534 149 199 31 3 46 163 5 128 51 .373 .495 .700
1932 NYY 133 457 120 156 13 5 41 137 2 130 62 .341 .489 .661
1933 NYY 137 459 97 138 21 3 34 103 4 114 90 .301 .442 .582
1934 NYY 125 365 78 105 17 4 22 84 1 104 63 .288 .448 .537
1935 BSN 28 72 13 13 0 0 6 12 0 20 24 .181 .359 .431
Total ' 2503 8398 2174 2873 506 136 714 2217 123 2062 1330 .342 .474 .690

[編集] 獲得タイトル・記録

[編集] その他

静岡草薙球場に建立されているベーブ・ルース像
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静岡草薙球場に建立されているベーブ・ルース像
映画『ベーブ・ルース』のポスター
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映画『ベーブ・ルース』のポスター
  • ルースが40歳となるまで、彼自身も含めて、ルースの誕生日は1894年2月7日と信じられてきた。したがって、当時の記録には、ルースの年齢を誤って記載しているものが多い。
  • 左投げ左打ちであったが、文字を書くときには右利きであった。
  • 回っている78回転のレコードのレーベルを読める動体視力の持ち主。
  • 養女ドロシーはその著書『わが父、ベーブ』のなかで、自らをベーブと家族ぐるみの付き合いのあった友人との間に生まれた実子であると主張している。
  • レッドソックス時代の1917年6月23日、ワシントン・セネタース戦に先発。打者1人に四球を与えたところで暴言により退場したが、リリーフしたアーニー・ショーはルースの残した走者が盗塁死のあと、9回まで1人の走者も許さずに投げぬいた。これは一時期はショーの完全試合として認定されていたが、現在ではルースとショーの継投によるノーヒット・ノーランの扱い。20世紀以降で最初の継投によるノーヒット・ノーランでもある。
  • 日本球界とのかかわりで言えば、1934年全米選抜チームの一員として来日している。航空便もなかった時代、長い船旅を当初はしぶっていたが、鈴木惣太郎が彼の似顔絵をメインにしたポスターを見せて説得したところ、快諾した。いざ来日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮、日本に野球人気を根付かせるのに大いに一役を買った。沢村栄治の名を今日まで伝説化することになった、「全米軍クリーンナップを4連続奪三振」の逸話では、最初に沢村から三振に斬り捨てられている。
  • 少年時代、自転車が欲しくてたまらず、プロ入りしてからポケットマネーで購入した。既に成人で、自家用車にしていてもおかしくない年齢だったにも拘らず(事実、他のチームメイト達は車を購入)、敢えて自転車を買って乗り回していた事で“やはりベーブ(赤ちゃん)だ”と笑われていたが、本人は全く意に介さず、“当時のニューヨークで、自分ほど得意だった人間はいなかったろう”と述懐している(伝記より)。
また、この自転車を購入した後にベーブは何台もの高級自動車を買ったが、自転車を手にした時ほどの嬉しさはなかったという。
  • 映画『夢を生きた男/ザ・ベーブ』は、ベーブの生涯を元に作られた映画である。
  • ファンサービスにも熱心だったことでも知られている。ファールボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、その後見舞いに行ったことがあった。他にも、ある病弱な少年の両親が医者に「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われて、少年が好きだったルースに見舞ってもらおうとダメ元で球団事務所に電話して頼んでみたら本当にルースが来て少年を驚かせたこともあった。しかも少年とその日のホームランを打つ約束までしたのである。結果は三打席凡退の後、ホームランを放っている。この病弱な少年とルースが再会したのはルースの晩年で、ルースが病気がちだった頃。再会時にはかつての病弱な少年はたくましく、結婚までした青年となっていた。

[編集] 関連項目

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