ベレンコ中尉亡命事件
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ベレンコ中尉亡命事件(ベレンコちゅういぼうめいじけん)は、1976年(昭和51)9月6日、冷戦のさなかにソビエト連邦の現役将校が、戦闘機で、日本の函館に亡命した事件である。ミグ25事件とも呼ばれる。
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[編集] 事件概要
[編集] ミグ25の本土侵入
1976年(昭和51年)9月6日、ソビエト連邦(現ロシア)の最新鋭機MiG-25(ミグ25)数機が、ソ連極東のウラジオストク近くにあるチェグエフカ空軍基地から訓練目的で離陸したが、そのうち1機が演習空域に向かう途中で突如コースを外れた。これを日本のレーダーが捉え、領空侵犯の恐れがあるとして急遽千歳基地のF-4EJがスクランブル発進した。
日本へ向かってくるMiG-25を探すが、レーダーサイトのレーダーはMiG-25が低空飛行に移ると探知することはできず、またF-4EJのレーダーは上空から低空目標を探す能力(ルックダウン能力)が低く、MiG-25は自衛隊から発見されずに北海道・函館空港に強行着陸した。
このとき、着陸地点を誤ったためにオーバーランし、滑走路はおろか空港敷地から飛び出し、金網を突き破って水田に突っ込んだ。着陸時の一部始終は空港近くで工事をしていた現場監督が撮影していた。監督は撮影しながら機体に近づいたが、現れたパイロットは銃を取り出して空に向けて発砲し、「これは最高機密だ。写真を撮るな。」とロシア語で叫んだ。当然監督に言葉は通じなかったが、監督は危険を感じてフィルムを差し出した。
米国への亡命を希望したパイロットのビクトル・イワノビチ・ベレンコ空軍中尉は当初千歳空港を目指したが方向確認ミスと燃料不足で函館空港に着陸したという。銃には実弾が込められていたが、日本人を撃つつもりは無かったと話している。
函館空港周辺は、北海道警察によって完全封鎖された。当時は、縦割り行政が今よりもひどく、自衛隊の立場は低かった。警察によって封鎖された現場には、陸上自衛隊員すら管轄権を盾に締め出され、軍事に関わる事項にもかかわらず一切の情報収集・警護に関する立案ができなかった。当時の陸上自衛隊函館駐屯地司令は、目の前で起きた軍事的な事案から締め出され、道南の防衛を担任する自分がテレビからの情報しか得られない苦悩を、後に公表された手記で明かしている。
[編集] 自衛隊の非常態勢
米ソ冷戦はデタントの時代で、緊張は緩和されていたとはいえ、予断を許していたわけではない。スイスのアメリカ大使館付武官より「ソ連がミグを取り返しに北海道を攻撃する」との情報が日本政府に提供され、日本中を震撼させた。そして実際に国籍不明機の接近を函館に駐屯する陸上自衛隊北部方面隊第11師団の第28普通科連隊(函館駐屯地)のレーダーが捉え、着陸現場からの締め出しから一変して第三種非常勤務態勢が、近藤靖第11師団長、高橋永治連隊長の命令により発令され、隊員に実弾が渡され完全な臨戦態勢となった。しかしこの機影は航空自衛隊機と判明し、自衛隊史上初の防衛出動は回避された。
ソビエト連邦から機体の即時返還要求があったが、日本と米軍は、9月24日、慣例上認められているとされる機体検査のためにMiG-25を分解し、米空軍C-5A大型輸送機(ギャラクシー)に搭載して百里基地(茨城県)に移送した。その際、輸送機を護衛する航空自衛隊の戦闘機パイロットには、「ソ連機が接近し、不審な動きをした場合は撃墜せよ」という撃墜指令が出たという。結局、ソ連がミグを取り返しに来るという情報はデマだった。機体検査の後11月15日に機体はソ連に返還された。
なお、ベレンコは希望通り米国に亡命した。
[編集] 事件の影響
この事件はパイロットの亡命要求であったことが幸いしたが、仮に攻撃目的の軍用機だった場合、自衛隊の防空網がやすやすと破られ、北海道が攻撃されてしまったことは否定できない。このため、日本のレーダー網の虚弱性が批判され、日本の防衛能力は、必要最低限にすら達していないという声があがった。この事件を契機に日本における防衛論議の流れに変化が生じ、従来は予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの購入もなされた。
一方のソビエト側は、レーダー・サイトが敵・味方機を識別するЯСС(Я - свой)暗号を変更せざるを得なかった。その外、当事件の調査のためチェグエフカ空軍基地を訪れた委員会は、現地の生活条件の劣悪さに驚愕し、直ちに5階建ての官舎、学校、幼稚園等を建設することが決定された。この事件は、パイロットの待遇改善の契機ともなった。
アメリカは、これまで超高速戦闘機として恐れてきたMiG-25が、実際にはそれほどの脅威と呼ぶに値せず、特にそれまで耐熱用のチタニウム合金製と考えられていた機体が、実は鋼板にすぎなかったこと、真空管などを多用した電子機器が著しく時代遅れであったことに驚愕し、対ソ連軍事戦略にも大きな影響を及ぼした(当時アメリカはMiG-25を意識する形もあってかF-15を開発していた。しかし“真空管=時代遅れ”には異説もある。当該項目参照)。
1997年(平成9年)8月、ベレンコは沈黙を破ってイリノイ州南部クインシーで北海道新聞のインタビューに応じ、米国ではソ連空軍情報を国防総省などに提供し、本名を隠し沖縄や厚木の米軍基地や台湾、韓国を訪れ、ロシアにも入国したと話している。1983年9月の大韓航空機撃墜事件では米側の暗号解読に協力証言した。
[編集] 参考文献
- 大小田八尋『ミグ25事件の真相:闇に葬られた防衛出動』学習研究社(学研M文庫)、2001年
- 原田景『ミグ25事件:ドキュメント 怪鳥の航跡を全走査する』航空新聞社、1978年。
- ジョン・バロン(高橋正訳)『ミグー25ソ連脱出:ベレンコは、なぜ祖国を見捨てたか』パシフィカ、1980年。