フランツ・アドルフ・ベルワルド
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フランツ・アドルフ・ベルワルド(フランス・アドルフ・ベールヴァルド、Franz Adolf Berwald, 1796年7月23日 - 1868年4月3日)はストックホルムに生れ同地で没したスウェーデンのヴァイオリン演奏家で作曲家。作曲は独学と言われ、半音階的な和声進行が特徴的な、きわめて独自の作風をとった。そのため生前はなかなか理解されなかったが、現在では近代スウェーデン音楽の基礎を作った1人として認められている。
目次 |
[編集] 略歴
- 1811年 - 15歳 王立管弦楽団の指揮者Du Roy(もしくはJ.B.E. Dupuy?)に師事。
- 1812年 - 16歳 以後1828年 (32歳)まで王立管弦楽団の奏者を務める。その間北欧中心に演奏旅行をする。
- 1829年 - 33歳 ベルリンへ移る。
- 1835年 - 39歳 整形外科を開業。
- 1841年 - 45歳 ウィーンへ移る。作曲家としての成功を収める。
- 1850年 - 54歳 1858年までガラス器工場を経営する。
- 1868年 - 72歳 4月3日 ストックホルムで没する。
[編集] 生涯
ベルワルドは4代にわたって音楽家の家系に生まれ、幼児期から、宮廷歌劇場ヴァイオリン奏者の父親にヴァイオリンを学び、まもなく演奏会に出演するようになった。1811年にスウェーデン国王カール13世ヨハン(グスタフ3世の弟)が実権を握り、宮廷礼拝堂を回復すると、その翌年にベルワルドは同礼拝堂に就職し、エドゥアール・デュピュイ(Edouard Dupuy)に師事しながら、宮廷楽団や宮廷歌劇場でヴァイオリンを演奏した。また、作曲も手掛けるようになる。夏は宮廷楽団のシーズンオフだったので、ベルワルドはスカンジナビアやフィンランド、ロシアで巡演した。この頃にベルワルドは「七重奏曲」や「セレナーデ」を作曲しており、まだ音楽にやりがいを覚えていた。
1818年にベルワルドは『音楽新聞』(Musikalsk journal)を創刊(のちフランス語のJournal de musiqueに名称変更)、これは自作も含めて、さまざまな作曲家による簡単なピアノ曲を載せた季刊誌であった。1821年に「ヴァイオリン協奏曲 嬰ハ短調」が弟アウグストにより初演されるが、評判は芳しくなく、緩徐楽章の最中に笑い出す聴衆さえいた。
1825年に父親が没すると、実家の経済状況が急に悪化したため、ベルワルドは複数の奨学金を得ようとしたが、辛うじて王室から奨学金を得られたに過ぎなかった。しかし、そのためベルリンに留学することができ、懸命にオペラの創作に取り組んだが、舞台にかける機会には恵まれなかった。生計を立てるために、ベルワルドは1835年にベルリンに整形外科と理学療法の診療所を開業したところ、収入に恵まれた。ベルワルドの発明した整形外科の器具は、その後100年間にわたって利用された。
だが、ベルリン時代にベルワルドは作曲をやめており、1841年にウィーンに転居し、マティルデ・シェーラー(Mathilde Scherer)と結婚した。1842年のウィーン・レドゥーテンザールの演奏会でとりあげられた自作の交響詩が絶賛されたため、ベルワルドはその後3年以上を費やして、4つの交響曲を書き上げた。
交響曲第1番ト短調「まじめな交響曲」("Serieuse")は、ベルワルドの生前に初演された唯一の交響曲で、1843年に従兄弟ヨハン・フレデリックの指揮により、宮廷歌劇場管弦楽団により上演された。その演奏会では、ベルワルドのオペレッタ「Jag gar i kloster」もとりあげられたが、その成功はイェニー・リンド(Jenny Lind)のおかげであると見なされている。
ベルワルドの作品は、スウェーデンでは作曲者の存命中には理解されず、新聞上の評論に敵意さえ引き起こしたが、ドイツやオーストリアではもう少しましだった。ザルツブルク・モーツァルテウムは1847年にベルワルドを名誉会員に加えた。
ベルワルドは1849年にスウェーデンに帰国し、アマチュア音楽家のルドヴィク・ペトレ(Ludvig Petre)が所有する AngermanlandのSandoで ガラス工房を経営した。その間ベルワルドは、室内楽に注意を向けた。
ベルワルドのオペラのうち、存命中に上演されたものは数少ないが、その1つ「ソリアのエストレッラ」は1862年4月に宮廷劇場で初演された際、大いに喝采を浴び、同月のうちに4回追加公演が行われた。この成功に続いて「Drottningen av Golconda」が作曲され、1864年に上演される運びになっていたが、宮廷歌劇場の監督者の交代により、実現されなかった。
1866年にベルワルドは、音楽的な業績に鑑みて the Order of the North Star 褒章を授与された。1867年、ストックホルム音楽院は、それまで彼の志願をはねつけてきたにもかかわらず、死の直前になって、ベルワルドを作曲家教授に任命した。その頃には多くの重要な依頼が舞い込んでいたが、それらを実行できるだけの寿命が彼には残されていなかった。
ベルワルドは1868年にストックホルムで肺炎のために死去し、同地の Norra begravningsplatsen に埋葬された。葬儀では、交響曲第1番から第2楽章が演奏された。
[編集] 主な作品
エドゥアルト・ハンスリックは、1869年の著書『ウィーンの演奏会の歴史Geschichte des Concertwesens in Wien』の中で、ベルワルドのことを「人となりは刺激的で機転に富むが、奇抜なきらいがあった。作曲家としては創作力や想像力に欠けていた」と開陳している。一方で、ベルワルド亡き後の作曲家のルドヴィク・ノルマンLudvig Normanやトル・アウリン、ヴィルヘルム・ステーンハンマルらが、ベルワルド作品の普及に尽力したため、ベルワルドがスウェーデンの「最も独創的で近代的な作曲家」(ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル著『Dagens nyheter』)として理解されるのに、そう長くはかからなかった。カール・ニールセンはベルワルドについてこう述べた。「メディアも金や権力でさえも、芸術を害することはできないし、芸術に役立つこともできない。しかし、前進し、創作し、自作のために立ち上がる単純でお人好しの芸術家のうちに、芸術はいつでも道を見出すだろう。スウェーデンにその最上の例がある――ベルワルドだ。」
ベルワルドの死から10年、交響曲第4番変ホ長調「素朴な交響曲」("Naive")が1878年に初演された。もともと1848年にパリ初演の計画だったが、1848年革命のために延期されたのである。だがこれも、ほかの2曲、交響曲第2番ニ長調「気まぐれな交響曲」("Capriceuse")と交響曲第3番ハ長調「風変わりな交響曲」("Singuliere")に比べればわりあい早い。これら2曲は、20世紀まで初演されなかったのである。
- 交響曲4曲
- ピアノ協奏曲ニ長調
- 大八重奏曲変ロ長調
- 弦楽四重奏曲ト短調他
- ピアノ五重奏曲、ピアノ三重奏曲
- オペラ
[編集] 参考書籍
- Robert Layton, editor, A Guide To The Symphony, Chapter 13, "The Symphony in Scandinavia", written by Robert Layton.
[編集] 外部リンク
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