ハマノパレード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
性別 | 牡 |
---|---|
毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1969年3月18日 |
死没 | 1973年6月24日 |
父 | テューダーペリオッド |
母 | オイカゼ |
生産 | へいはた牧場 |
生国 | 日本(北海道静内町) |
馬主 | (株)ホースタジマ |
調教師 | 坂口正二(栗東) |
競走成績 | 20戦8勝 |
獲得賞金 | 9016万4400円 |
ハマノパレードは日本の競走馬。1973年宝塚記念を制した事よりも、次走・高松宮杯のアクシデントとそれが原因の悲劇で有名な馬である。
[編集] 戦績
1969年3月18日に誕生したハマノパレードは、1972年のクラシック戦線を沸かせたランドプリンス・ロングエース・タイテエムの関西3強と同世代である。しかし、デビュー予定が骨膜炎で1ヶ月ずれ込んだ事が響いたか、初勝利は年越し直後の未勝利戦であった。2月迄に3勝したハマノパレードは関東地区の流感騒動でずれ込んだクラシックに乗ろうとしたが、休み無く使い込んだ無理が祟り細化。止む無く、ハマノパレードの将来を考え陣営はクラシックを諦め休養に入った。
この決断は吉と出た。休み明け直後700万下・オープンを連勝した勢いに乗り、天皇賞馬・ヤマニンウエーブ参戦の阪神大賞典を制覇。翌年に入ってからも好調は続き、不得手の重馬場になった日経新春杯こそ6着に沈んだものの、次走の京都記念では菊花賞馬・ニホンピロムーテーを倒し重賞2勝目。夢に見たタイトル天皇賞獲得は目の前かと思われたが、運が悪い事にレース当日の天候は雨。最後の直線で外に膨れる悪い癖が出たのが致命傷となりハマノパレードは8着に沈む。その結果、同期の無冠の貴公子・タイテエム戴冠を見せ付けられたのである。
だが、リベンジのチャンスは意外に早く訪れた。4番人気で挑んだ宝塚記念でハマノパレードはスタートから先頭を奪うと、2番手につけたタイテエムに一瞬馬体を併せられるが、二の足を使って振り切りレコード勝ち。遂に裏街道を抜け出したのであった。
しかし、栄光の日々は1ヶ月も続かなかった。中京競馬場開催の次走・高松宮杯でも天皇賞馬・ベルワイドを向こうに回し、宝塚記念の再現をするかの様に快調に逃げていた。悪夢は最後の直線で起きた。2番手のタケデンバードに決定的差を築き始めた刹那、ハマノパレードはよもやの転倒。前脚を骨折しており、馬運車に収容されたその場で予後不良の診断が下る致命傷であった。
[編集] 悲劇
だが、ハマノパレードの予後不良宣告は、悲惨極まりない悲劇の幕開けとなった。ハマノパレードはその場での死を許されず、痛みでもがき苦しむ状態のまま食肉業者に売り飛ばされ、翌朝になって屠殺された。
その馬肉が中京競馬場にほど近い名古屋地区の食肉市場に出た事(1973年6月25日”さくら肉・『本日絞め』・400キログラム”)から最初は食肉業者の間で噂となり、それがスポーツ新聞で記事として扱われて、それを見た動物愛護運動の者たちから大きな批判を浴びる事態となった。
その後、年が下るにつれ、重度の故障を発症した競走馬については屠殺が原則的に行われなくなり、予後不良の診断が下ってその後の必要な諸手続きが完了次第、即刻薬殺されるシステムが整備されていった。ハマノパレードの死は現行の安楽死システムが作られる一つの大きな契機となったものといえる。