トーマス・マン
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パウル・トーマス・マン (Paul Thomas Mann, 男性, 1875年6月6日 - 1955年8月12日) はドイツのノーベル文学賞を受賞した作家であり、兄に同じく小説家のハインリヒ・マンがいる。
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[編集] 生涯
トーマス・マンは当時ハンザ同盟に属していたリューベックの富裕な家庭に生まれた。父親のヨハン・ハインリヒ・マンは市議員まで務めた穀物を扱う豪商であったが、トーマスが16歳のときに亡くなっている。それをきっかけとしてマン家の商会は解散し、一家はミュンヒェンに移りそこで1891年から1933年まで暮らした。トーマスはギムナジウムへ通うためリューベックに留まったが、彼はその頃から詩や短編小説を発表している。1893年には学校を退学し、家族のいるミュンヘンへ移り、火災保険会社で無給で働きながら小説を書き始める。その後、トーマスは兄のハインリヒと共にイタリアのパレストリーナで一年を過ごしている。
マンが小説家としての名声を獲得したのは1901年に発表された、自身の家族をモチーフとした『ブッデンブローク家の人びと』である。また1903年にはマンの代表作の一つである『トニオ・クレーゲル』が発表されている。
1905年にミュンヘン大学のユダヤ系の数学教授アルフレート・プリングスハイムの娘カタリーナ(愛称カティア Katia またはカーテャ Katja。カーチャは誤読)・プリングスハイム(Katharina "Katia" Hedwig Mann (Pringsheim), 1883年 - 1980年)と結婚し、その後エーリカ(Erika)、クラウス(作家)、ゴーロ(Golo; Angelus Gottfried Thomas:歴史家)、モーニカ(Monika)、エリーザベト(Elisabeth:ピアニスト)、ミヒャエル (Michael:ヴァイオリニスト)の6子をもうけた。 1912年には夫人の病気に付き添い、スイスのダヴォスに数週間滞在している。この経験は後年『魔の山』として長編小説化される。また、1929年に『ブッデンブローク家の人びと』でノーベル文学賞を受賞している。
1933年に ナチスが台頭すると、スイスのチューリッヒ近くのキュスナハトに移住し、更に1942年にアメリカはカリフォルニアのパシフィック・パリセーズに移った。 戦後は、1949年にフランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞を受賞し、1955年には故郷にて名誉市民に選ばれた。また1952年にはチューリッヒ近くのキルヒベルクに移り、そこで余生を過ごし息を引き取った。
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マンは20世紀の教養小説をはじめとするドイツ文学に多大な影響を及ぼした。また、彼の作品のテーマから同性愛を解釈する者もある(特に『ヴェニスに死す』)。1975年から順次公開されたマンの日記は、(彼の作品にも見られるという)彼の同性へ恋愛感情のある自分との葛藤を感動的に語っている。マンは、若いヴァイオリニストであり画家でもあるパウル・エーレンベルクへの彼の感情について「わが心の主要な経験(central experience of my heart)」として記した。
『ヴェニスに死す』がイタリアでルキノ・ヴィスコンティの手により映画化(『ベニスに死す』)されたものが名画として著名であるほか、多くの作品がドイツ国内外で映像化されている。
[編集] 主な著作
- 小男フリーデマン氏(Der kleine Herr Friedemann, 1898年)
- ブッデンブローク家の人びと(Buddenbrooks - Verfall einer Familie, 1901年)
- トーニオ・クレーゲル(Tonio Kröger, 1903年)
- 大公殿下(Königliche Hoheit, 1909年)
- ヴェニスに死す(Der Tod in Venedig, 1912年)
- 非政治的人間の考察(Betrachtungen eines Unpolitischen, 1918年)
- ドイツ共和国について(Von deutscher Republik, 1922年)
- 魔の山(Der Zauberberg, 1924年)
- 無秩序と幼い悩み(Unordnung und frühes Leid, 1926年)
- マリオと魔術師(Mario und der Zauberer, 1930年)
- ヨセフとその兄弟(Joseph und seine Brüder, 1933年 - 1943年)
- ヤコブ物語 (1933年)
- 若いヨセフ (1934年)
- エジプトのヨセフ (1936年)
- 養う人ヨセフ (1943年)
- ヴァイマルのロッテ(1939年)
- すげかえられた首(Die vertauschten Köpfe - Eine indische Legende, 1940年)
- ファウスト博士(Doktor Faustus, 1947年)
- 選ばれし人(Der Erwählte, 1951年)
- 詐欺師フェーリクス・クルルの告白(Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull. Der Memoiren erster Teil, 1922年/1952年)
[編集] 政治的な立場
第一次世界大戦中、マンはヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)を支持する保守派であり、自由主義を非難した。しかし終戦後、彼の政治観は徐々にリベラルな民主主義へと変わっていた。1923年の著作「ドイツ共和国について」の中で、ヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。1930年にはベルリンで「理性に訴える」という講演をおこない、その中でナチズムの進出を警告し、労働者階級による抵抗を励ました。同時に、社会主義と共産主義への共感が増していることを表明した。1933年3月にナチスが政権を掌握したとき、マンは妻と海外旅行中であったが、彼の息子クラウスはマンにドイツへ帰らないよう助言し、マンはスイスへと移住した。1933年5月、マンの著書『ブッデンブローク家の人びと』などがヒトラー政権による焚書対象に指定され、燃やされた。1936年、ナチス政権はマンの財産とドイツ国籍を没収した。1940年以降、終戦までの五年間、彼は英BBC放送を通じて毎月定期的に、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。