トロイカ体制
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トロイカ体制とは、ソ連でスターリンの死後、権力が一人に集中するのを防ぐために書記長を廃止し第一書記、最高会議幹部会議長、首相に権限を分散させた集団指導体制のこと。 転じて、3人で組織を指導してゆく体制全般を差しても使われる。名前の由来はロシアの3頭立ての馬橇であるトロイカ。
[編集] 歴史
1953年にスターリンが死去すると、ゲオルギー・マレンコフが党第一書記、首相を兼任し権力を掌握した。しかし集団指導体制を目指すマレンコフは党第一書記をニキータ・フルシチョフに譲った。最高会議幹部会議長にはクリメント・ウォロシーロフが就任しトロイカ体制が成立する。
権限の分散を狙ったマレンコフであったが、党が国家を指導するという共産主義国家では必然的に党第一書記の発言力が強くなった。フルシチョフとの対立の結果マレンコフはわずか2年で首相の座を追われた。後任にはニコライ・ブルガーニンが就いた。フルシチョフは1956年に自身の失脚を画策したマレンコフらに反党グループの烙印を押し逆に完全に失脚させ、実質的なソ連の最高権力者となった。ブルガーニンはこの時フルシチョフ支持を明確にしなかったことが原因で1958年に首相を解任させられる。首相職はフルシチョフが兼任することになり、トロイカ体制は終焉する。
1960年にウォロシーロフの辞任にともないレオニード・ブレジネフが最高会議幹部会議長に就任した。ブレジネフは表向きはフルシチョフに忠実であったが裏では他の政治局員とともにフルシチョフ追放を画策する。ブレジネフは1964年にフルシチョフを失脚させると第一書記に就任、最高会議幹部会議長には長老派のアナスタス・ミコヤンが、首相にはアレクセイ・コスイギン就任し、トロイカ体制が復活する。しかしフルシチョフに近すぎたミコヤンはブレジネフに疎まれ翌1965年には辞任した。ミコヤン辞任後はニコライ・ポドゴルヌイが最高会議幹部会議長に就任した。
ブレジネフは1966年に第一書記という呼称をスターリン時代の書記長に戻す。権力の集中強化に努めたブレジネフは1977年にポドルコヌイを追い落とし最高会幹部会議議長に就任、書記長と兼務した。ブレジネフの書記長、最高会幹部会議議長の兼任によりトロイカ体制は名実ともに終わりを告げた。
ブレジネフの死後、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコと高齢の指導者による短期政権が続いた後、1985年にミハイル・ゴルバチョフが書記長の座に就いた。ゴルバチョフはコスイギンのあとをうけ首相を務めていた高齢のニコライ・チーホノフを解任しニコライ・ルイシコフを就けた。また、長年外相を務めたアンドレイ・グロムイコを最高会議幹部会議長に祭り上げ、ここに三度トロイカ体制がスタートする。
ゴルバチョフは外相にエドゥアルド・シェワルナゼを任命し新思考外交を展開、内政的には改革開放路線であるペレストロイカ政策を推し進めた。ゴルバチョフは1988年にグロムイコを解任し、自ら最高会議幹部会議長に就任しトロイカ体制は終わる。しかしゴルバチョフは他のトロイカ体制を終わらせた指導者たちのように権力を強化することはできなかった。改革派と守旧派の対立の中で難しい政権運営を迫られており、ゴルバチョフの求心力は著しく低下していた。この後ゴルバチョフは新しく大統領制や最高会議を改組した人民代議員大会をスタートさせるも政権を安定させることはできなかった。1990年にルイシコフにかわって首相に就けたバレンティン・パブロフらが起こした1991年8月のクーデターによりゴルバチョフは失脚、ソ連も崩壊することになる。
[編集] その他のトロイカ体制
- 1981年 - 1983年までの読売ジャイアンツの第一次藤田元司監督時代で、藤田監督、牧野茂ヘッドコーチ、王貞治助監督の3人が合議しながら指揮を執った体制がよく知られている。
- ベトナム社会主義共和国では、現在も最高指導者の共産党中央委員会書記長、名目上の元首の国家主席、実務を担う首相の3職を分離させるトロイカ体制を敷いている。
- 2006年4月 - の民主党の執行部体制。前原誠司代表が偽メール問題で辞任した後就任した小沢一郎代表が、元代表であり、党内実力者である菅直人、鳩山由紀夫をそれぞれ代表代行、幹事長として挙党一致体制を敷いた体制。
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