トク・テムル
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トク・テムル(Toq-Temür, 1304年 - 1332年)は、モンゴル帝国(元)の第12代大ハーン(在位1328年 - 1332年)。漢字表記は図帖睦爾。廟号は文宗、諡は聖明元孝皇帝。モンゴル語の尊号はジャヤガト・カアン(ジャヤート・ハーン)。
武宗カイシャンの次男。母はタングト部の人で、明宗コシラの異母弟にあたる。1311年にカイシャンが急死し、その弟シデバラが即位したときはまだ8歳であったが、カイシャンの母ダギおよび丞相テムデルらの陰謀によってダギと同じコンギラト部の者を母としないコシラとトク・テムルの兄弟は遠ざけられ、シデバラが即位すると海南島に流された。1323年、英宗シデバラが暗殺され、新帝に擁立された泰定帝イェスン・テムルが暗殺者テクシらを処刑して政権を一新すると処分を緩められて懐王に封ぜられ、建康(現在の南京)、ついで湖北の江陵に住まわされた。
1328年旧暦7月に上都でイェスン・テムルが死去すると、大都にいたキプチャク親衛軍の司令官である僉枢密院事エル・テムルがカイシャンの遺児の擁立を訴え、反乱を起こして政府官庁を占拠した。コシラはダギとテムデルによって追いやられ、遠くアルタイ山脈西麓の中央アジアにいたので、彼らは手近な江陵にいる弟のトク・テムルを大都に迎え入れ、トク・テムルは旧暦9月に大都で即位した。同じ頃、上都ではイェスン・テムルの寵臣で宰相の左丞相ダウラト・シャーがイェスン・テムルの遺児アリギバを擁立していたが、エル・テムル率いる大都側の軍は上都側の軍を打ち破り、内モンゴルから華北にいる諸軍団がことごとく大都側についたため、上都のダウラト・シャーは降伏した。
しかし、時を同じくしてコシラがアルタイ山脈を越え、旧都カラコルムに入ってモンゴル高原に駐留する諸王族・有力者の支持を取り付けた。右丞相エル・テムルら大都のトク・テムル・ハーンのもとで政権の中枢にのし上がった人々はコシラが即位すれば彼の側近やモンゴル高原の遊牧貴族たちに政権を奪われることを恐れたが、トク・テムルの兄であり母の家柄のよいコシラのほうが大ハーンに適格であり、またモンゴル高原の諸軍と内戦を続けることも難しかったため、1329年4月にエル・テムルがコシラに皇帝の玉璽を奉じ、ハーン位をコシラに譲った。しかし8月、上都の郊外で兄弟が会見した直後、にわかにコシラが亡くなり、兄の皇太子となっていたトク・テムルが、そのわずか11日後に復位を宣言する。エル・テムルはコシラの側近を追放、処分し、大都の軍閥勢力が再び政権を握った。
復位後3年にわたったトク・テムルの治世には、エル・テムルが独裁権力をふるい、ハーンはまったくその傀儡に過ぎなかった。内政・外政ともにエル・テムルを頂点とする軍閥間の利権政治に終始し、政治的には元朝の衰退がはっきりとし始めた時代である。トク・テムルの業績として知られるのはむしろ文化事業であり、朱子学を保護してその地位をひきあげ、元の政治制度を漢文によって集大成した『経世大典』を編纂するなど、漢人の学者が優遇された。
1332年、病弱であったトク・テムルは30歳に満たない若さで急逝した。トク・テムルには実子もいたが、兄の遺児を選んで後継者とするよう遺言したため、わずか7歳のコシラの次男、イリンジバルが次代のハーンに擁立される。
先代 |
1328年 - 1332年 |
次代 |
泰定帝イェスン・テムル | 寧宗イリンジバル | |
明宗コシラ |