チャシ
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チャシはアイヌの「砦」や「城」のことである。チャシというアイヌ語は元来「柵」を示していた。
[編集] 概要
チャシは「砦」・「城」と訳されているが今日われわれが「砦」や「城」という言葉から連想するような強固でしっかりとしたものではなく元来あった自然地形を利用して築かれた簡便なものであった。チャシは利用された自然地形の性格により大別されていて、丘先式は突出した台地(たとえば丘や岬など)の先端を利用したもの、丘頂式は山や尾根の頂の部分を利用したもの、孤島式は平坦地あるいは湖の中に孤立してある丘あるいは島を利用したものである。機能や性格としては「砦」・「城」から連想される砦として防塞的な役割が与えられていたというよりもむしろ濠などによって隔てられた、聖域として見られていた面があり戦闘のためというよりもむしろ祭祀や部族同士の談合(チャランケ)、あるいは採取のための見張り場として使われていたようである。
先ほども述べたようにチャシは地形を利用しているためその形態は地形の影響を相当に受けており方形あるいは円形で、濠に囲まれることもあった。
チャシは現在でも北海道(1976年の北海道教育委員会による調査によると当時北海道には341基のチャシが残存していたという)や千島列島や樺太(サハリン)および東北地方の一部地域になお残っているといい中には北海道(日高支庁)沙流郡の平取町にある二風谷遺跡のように全面的な発掘や調査が行われることもありだんだんとチャシについてのさまざまなことが明らかになっているという面もある。
上の二風谷遺跡の例で言うとチャシは1667年(寛文7年)に起こった樽前山の噴火によって出来た火山灰の地層の下から発掘されていて1667年より前に出来たことがわかるが、このようにさまざまなチャシの出来た時代を推測すると、いまだ全面発掘に至った遺跡の数が少ないため確かではないもののほとんどが16世紀から18世紀に構築されたのだということが推定される。
チャシには、北方ユーラシアのゴロディシチャやカムチャツカ半島のオストローフィや日本の本州東北地方の館(たて)との構造における類似点がいくつか見出されておりそれらとの形成上のかかわりを指摘する説もあるという。