ストーク・フィールドの戦い
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ストーク・フィールドの戦い | |||
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戦争: 薔薇戦争 | |||
年月日: 1487年 6月16日 | |||
場所: イングランド ノッティンガムシャー | |||
結果: ランカスター派の圧倒的勝利 | |||
交戦勢力 | |||
ヨーク家 | ランカスター家 | ||
指揮官 | |||
リンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポール | ヘンリー7世 | ||
戦力 | |||
8,000 | 12,000 | ||
損害 | |||
4,000 | 3,000 | ||
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ストーク・フィールドの戦い(Battle of Stoke Field)は、1487年6月16日に行われた戦闘で、薔薇戦争の最後の戦闘。
[編集] 王位争奪
ヘンリー7世はランカスター派の後継として王位を得て、エリザベス王女との結婚で旧ヨーク派の取り込みも進んでいた。しかし、まだ彼の支配力は完全ではなかった。
生き残った中で最も有力なヨーク派の後継者は、エリザベスの従弟に当たるウォリック伯エドワード(クラレンス公ジョージの息子)だったので、この少年はロンドン塔に収監されていた。
このウォリック伯エドワードの名前を騙るランバート・シムネルという少年がリンカーン伯ジョンの目に留まった。リンカーン伯としてはテューダー朝のヘンリー7世と和解は可能だったが、彼は王位継承権を持っていた(さらに、最後のプランタジネット系の王リチャード3世は生前、ウォリック伯を後継者に指名していた)。彼はシムネルを利用する事で、ヨーク派の復讐と王位継承という補償の機会を得た。
リンカーンは1487年3月19日にイングランドの宮廷を出て、彼の叔母のブルゴーニュ公爵夫人マーガレットのいるマリーヌ(Malines、現ベルギー、アントウェルペン州)の宮廷に行った。マーガレットは資金の他に老練なドイツの指揮官、連隊長マーティン・シュワルツの下に1,500人の一流のドイツ人・スイス人傭兵を揃える形で軍事援助も行った。マリーヌのリンカーンに、テューダー朝に反感を持つ、リチャード3世の忠実な支援者だったラベル子爵、ジャージー島の前知事リチャード・ハールストン卿、カレー駐屯軍の司令官トマス・デイヴィッド、といった貴族達が合流した。
[編集] ヨーク派の反乱
ヨーク派の艦隊は1487年5月4日にダブリンに到着した。アイルランドの大法官であるトマス・フィッツジェラルド卿の助けを借りて、リンカーンは4,500人のアイルランドの傭兵を、主にカーン(軽武装だが高機動な中世アイルランドの歩兵)として雇った。
アイルランドのキルデア伯と牧師の支援で、リンカーンは1487年5月24日にダブリンでランバート・シムネルを「国王エドワード6世」として王位につけた。議会が新しい「国王」のために召集されたが、リンカーンはダブリンに留まらず、軍隊とシムネルを連れて北ランカシャーに向けて出航した。
1487年6月4日に上陸すると、リンカーンの軍にトーマス・バウトン卿の指揮する郷紳が合流してきた。5日で300km以上に渡る一連の強行軍で、ヨーク派陸軍は8,000人の兵に達していた。6月10日の夜、タッドキャスター(Tadcaster)の外れにあるブラムハム・ムーア(Bramham Moor)で、ラベル卿指揮下の2,000の兵がクリフォード卿率いるランカスター派の400の兵に夜間攻撃を仕掛けた。結果は圧倒的なヨーク派の勝利であった。
続いてリンカーンはノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー指揮下のヘンリー国王の北方軍の裏をかき、6月12日にジョン・スクロープ卿の軍に牽制のためにブーサム・バー(Bootham Bar)、ヨークを攻撃させた。スクロープ卿は、ノーサンバランドの軍を襲って、北方に退いた。
リンカーンと主力軍は南方攻略を継続した。ドンカスター(Doncaster)の外れで、リンカーンはスケール卿配下のランカスター軍の騎兵隊に遭遇した。シャーウッドの森を通って3日間の 追撃が続き、リンカーンはスケール卿をノッティンガムに追い込んだ。しかしこれまでの戦いでヨーク派の進軍速度は低下しており、6月14日にノッティンガムに着くやいなや、ヘンリー7世はストレンジ卿の指揮する増援部隊をスケール卿に合流させる事ができた。
6月15日、リンカーンがトレント川を渡河した知らせを受けたヘンリー国王は、北東のニューアークに進軍した。6月16日の午前9時頃、ヘンリー国王軍の前衛が東ストーク村の三方をトレント川に囲まれた丘の稜線の上のヨーク派軍に遭遇した。
異常な作戦展開の中で、ヨーク派はすぐさま攻撃に移ることで高地を放棄した。壮絶な戦いが3時間以上繰り広げられたが、結局は甲冑の薄い(軽装の)アイルランド部隊の死傷者数が数を増していった。
後退することが不可能で、ドイツとスイスの傭兵は最後まで戦い抜いた。ヨーク派の全ての司令官、リンカーン伯、フィッツジェラルド卿、バウトン卿、シュワルツは皆戦死した。ただラベル子爵だけは脱出し、オックスフォードシャーにある自宅(ラベル大聖堂)の隠し部屋の中で餓死している所を、200年後に発見されている。シムネルは捕らえられたが、ヘンリー7世に許され(シムネルが大人の操り人形に過ぎなかったからか)、王室の台所で仕事を与えられた。