ジョーイ・ギャロ
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ジョーイ・ギャロ(Joey Gallo, 1929年4月7日 - 1972年4月7日)は、ニューヨークのやくざで殺し屋。別名、クレージー・ジョー(Crazy Joe)。三兄弟の次男。ボブ・ディランの「Joey」のモデル。
南ブルックリンを縄張りとして、ハーレムなどの黒人の縄張りまで進出。ナンバーズ賭博や麻薬、売春で稼ぎまくり傘下に多数の兵隊を抱えてバズーカや爆弾で武装化する半独立ファミリーを形成。1957年に発生した有名なアルバート・アナスタシア暗殺事件の実行部隊はギャロ一派だったとされる。NY市長に頼まれ白人と黒人の右翼団体の仲裁にも乗り出している。
1959頃には所属するプロファーチ一家と内部抗争を起こす。元々、南ブルックリンのギャロ一族は独立系の文字通り一族で勢力を保ってきたが、ラッキー・ルチアーノらの協定によりプロファーチの傘下とさせられた経緯がある。当時マフィア・コミッション内でプロファチと対立する立場にあったボスのトーマス・ルッケーゼやカルロ・ガンビーノの後盾(黙認)を得て行動に移している。一時は圧倒的に押して敵の首脳部をニューヨークから追放したギャロ一家だが、共に行動していたカーマイン・パーシコらのグループがプロファチ側に寝返ったこと、同じプロファーチ一門のジョゼフ・コロンボの仲裁もあり和解している。シチリア戦争で官憲から逃れアメリカに亡命した「殺し屋たち」を抱えていたボナンノ一家もギャロに圧力を加えたとされるが、ギャロ本人はのんびりした様子だったと伝えられる。
戦争が終わると警察により殺人罪で逮捕されるが矢張り有罪とはならず、脱税と暴行容疑で起訴され刑務所へ送られる。この服役中の暇つぶしに読書を始めて、死ぬまで読書家であった。ハリウッドの脚本家に「ヘンリー・ミラーの作品をどう思う?」と質問しているようにアメリカ文学が好みだったようである。
10年後の1971年2月アッティカ刑務所を出所、彼の不在中にギャロ一家は衰退していたが再び活動を活発化させ黒人ギャングや暴走族のヘルス・エンジェルスとも提携し、プロファーチの衣鉢を継いだコロンボと再び抗争。イタリア人権利向上運動にのめりこんだコロンボのことを快く思っていなかったガンビーノの支援を受けていたとされる。コロンボはまもなくコロンブスサークルでの集会最中に黒人ガンマンによって狙撃され、植物人間となって引退するが、この暗殺未遂事件は一般にはギャロの手引きとされる。ギャロ自身もこの抗争により1972年4月7日、リトル・イタリーの有名なカニのレストラン"Umberto's Clam House"で射たれ路上で死亡。
少なくとも40人は自分の手で殺し、それ以外にも数十件の未解決殺人事件に関与しているとされるが殺人では有罪になった事はない。子供好きだったとされる。
世界暗黒史に残るアッティカ刑務所での暴動の起こる少し前に出所しているが、彼の伝記映画である「Crazy Joe」ではこれを鎮圧しており日本のマンガ「代紋TAKE2」の府中刑務所編はここからインスパイアされていると推察される。