ジェームズ・ハリントン
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ジェームズ・ハリントン(James Harrington,1611年1月7日-1677年9月11日)は、イギリスの政治哲学者。
大陸を旅行してオランダ、ヴェネツィアの共和政治に感銘を受ける。ピューリタン革命の時には議会派に与したが、不偏不党の立場をとりチャールズ1世に重用され、1646年には王の処刑に反対して政治から退いた。のち、陰謀の嫌疑でチャールズ2世により逮捕されている。
主著『オセアナ共和国 The Commonwealth of Oceana 1656年』で、空想的な理想国家に託して、財産・土地の均衡分配や官吏の民選などの共和政治を説いた。オセアナはイギリスのことで、この書物で扱われている多くの事件はハリントンが自国の病気をどう診断していたかを示す。 彼は自分の著作を〈政治解剖学〉と呼び、ハーヴェーの仕事と比較をしていた。ペティなどの政治算術と並び、政治と経済を結びつけ自然科学に近づける試みの一つとも考えられる。
さらにハリントンはマキャヴェッリやセルデンの研究をふまえて、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』でおこなった権力の分析は不十分であり、権力とは幾何学のような抽象ではなく、軍事力にもとづくものでありその背後に経済制度がある、と考えた。財産の配分が変動することによって、政治組織と経済利害が一致しなくなり、そうした危機が革命を必要とする、とも論じた。国家は財産のバランスに従うので、その圧力には国王も議会も抗し得ない。そのような意味でイギリスの共和制は「確実で自然」なのである、と。このカール・マルクスの唯物史観を予見させるような革命観と思想は、フランスの社会主義者サン=シモンに大きな影響を与えた。アメリカ諸州の憲法へは実践面で応用されたとはいえ、フランス革命・産業革命以後は本国でもほとんど忘れ去られ、ホイッグ系の歴史家たちには無視されていたが、アクトン・メイトランド・グーチなどの歴史家たちに再評価され、政治思想の権威として高く評価されている。