グレテ・ワイツ
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女子 陸上競技 | ||
銀 | 1984 | マラソン |
グレテ・ワイツ(Grete Waitz née Andersen、旧姓アンデルセン、1953年10月1日-)は、ノルウェーの女子陸上競技選手。中距離ランナーからマラソンに転向し、1970年代後半から80年代にかけて女子マラソンの記録を飛躍的に高めた。
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[編集] マラソン転向まで
ノルウェーの首都オスロで生まれる。小さい頃から運動能力に長けていたが、女性のスポーツへの理解と支援が十分ではなかった時代で、両親にスポーツへの取り組みを理解させるのに苦労したという。努力の甲斐あって1972年のミュンヘンオリンピックに1500mの代表として出場した。1975年には3000mで二度の世界記録を樹立するも、1976年のモントリオールオリンピックで再び出場した1500mでメダルを逃し、陸上競技から引退するつもりであった(モントリオール五輪後に結婚し、ワイツ姓となる)。しかし、彼女のスピードに注目していたニューヨークシティマラソン主催者のフレッド・リボウがマラソンへの出場を説得し、1978年の同マラソンに出場することとなった。
[編集] 世界最高での3連覇
初マラソンとなった1978年のニューヨークシティマラソンでは、いきなり2:32:30の世界最高記録で優勝する。翌1979年には女性として初の2時間30分突破となる2:27:33で連覇。1980年の大会では、当時としては驚異的な2:25:42で3連覇を飾った。ワイツの出現は、ジョガー出身者が中心だった女子マラソンの世界に本格的なスピード時代の到来を告げるもので、3年間の記録向上は実に6分48秒にも及んだ。余談ながら日本の女子選手が1980年のワイツにほぼ匹敵する記録を樹立するのは14年も後のことである。
[編集] ロサンゼルスオリンピックまで
4連覇が確実と目された1981年のニューヨークシティマラソンでは、足の痛みから初の途中棄権となる。このレースではニュージーランドのアリソン・ローがワイツの記録を上回る2:25:29でゴールし、世界記録更新と伝えられた。しかし、この年のレースは正規の距離より400m短かったことが3年後に判明し、実際にはこの時点でもワイツは世界記録保持者だった。
ワイツは翌1982年からは再びニューヨークシティマラソンで勝ち続け、1986年まで5連勝する。一方、ニューヨーク以外のレースには頑なに出場を断ってきたワイツが初めてそれを破って出場した1983年のロンドンマラソンで、2:25:29の自己ベストを記録する。この記録をめぐっては世界最高記録になるかどうかでちょっとした騒ぎになった。というのは、計時は10分の1秒まで行われており、厳密なタイムは2:25:28.7であった。この記録の発表に際し、マラソンなら10分の1秒は「切り上げ」になるところ、当初他の競技の「切り捨て」ルールを誤って適用し「世界最高記録」とされた。直後に誤りが判明し、上記のアリソン・ローと並ぶ「世界タイ記録」に訂正された。しかし、現在ではローの記録が取り消されているため、この時点ではワイツ自身の持つ世界記録の更新だったことになる。だが、いずれにせよ、翌日に開催されたボストンマラソンでアメリカのジョーン・ベノイトが2:22:43という大記録を打ち立て、わずか1日でワイツの記録は更新されたのだった。
とはいえ、ベノイトが記録を更新した後もワイツが女子マラソンの実力世界ナンバーワンという評価は揺らぐことはなかった。ベノイトの記録は片道コースで全体として下り坂のボストンで樹立されたものであり、ワイツを凌ぐと見る関係者は少なかったのである。同年夏、ヘルシンキで開かれた第1回世界陸上競技選手権のマラソンに出場し、実力通り優勝した。この結果は、初めて女子マラソンが正式採用される翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル最有力候補という評価をますます高めた。
そのオリンピック本番では、他の多くの有力選手と同様、高温の環境を懸念して序盤での飛び出しを控えた。ベノイトの飛び出しにも、無謀と判断して付いていかなかったが、その後もベノイトは下がってこなかった。このときワイツは腕時計をはめておらず(計時車の直後を走るからという意図だったのか、単なるミスかは不明)、20kmをすぎてから並走していた同じノルウェーのイングリッド・クリスチャンセンに時間を教えてもらって初めて自らの作戦ミスに気づき、あわてて追いかけるが時すでに遅かった。それでもワイツは2位を守り抜き銀メダルを獲得した。
[編集] その後
1980年代後半までワイツは第一線で活躍した。ニューヨークシティマラソンでは1986年までの5連覇の後、1988年にも優勝し、通算9回の優勝はもちろん大会記録である。その後は第一線を退いたが、ランニングと健康を伝えるための市民マラソンには出場を続けている。また、知的発達障害者のためのスペシャルオリンピックスや、ケア・インターナショナルのボランティア活動も行っている。
祖国ノルウェーでは、オスロのビスレースタジアム前に像が建てられ、切手の図柄にもなったほか、彼女の名前を冠した記念レースが開催されている。また数々の記録を残したニューヨークでは、ニューヨークロードランナーズクラブの後援で「グレテ・グレート・ギャロップ」ハーフマラソンが実施されている。
2005年6月、癌で闘病中であることを公表した。化学療法と放射線療法と受けながら、毎朝トレッドミルで10km相当のランニング運動を行っているといわれる。なお、癌に冒されている部位については本人の意思で公表されていない。
[編集] その他
- 世界的なランナーでありながら、日本の大きなレースには一度も参加しなかった。これはニューヨークシティマラソンとの兼ね合いや、参加報酬(当時日本国内では非公式に行われていたといわれる)が障害になったとされる。
- 上記の理由で彼女と走った日本人は少ないが、増田明美は1982年に北欧に遠征した際に何度か同走している。オスロのハーフマラソンでは、引き離されそうになって増田が思わずワイツのランニングパンツを手で引っ張ったところ、ワイツはその手をはたいて走り去った(レース結果はワイツが優勝、ベノイトが2位で増田は3位)。
カテゴリ: マラソン選手 | ノルウェーの陸上競技選手 | 1953年生