オラドゥール・シュル・グラヌ
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フランス > リムーザン地域圏 > オート=ヴィエンヌ県 > オラドゥール・シュル・グラヌ
オラドゥール・シュル・グラヌ | |
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経緯 | 北緯 45°55' 58" 東経 1°1' 57" |
地域圏 | リムーザン |
県 | オート=ヴィエンヌ |
人口 | 2,025 人 (1999年) |
面積 | 38.15 km² |
村長 | レイモンド・フルジエ 2001年-2008年 |
オラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-Glane)は、フランス・リムーザン地方の村である。1944年6月10日、ドイツの占領下であったこの村で、ナチス武装親衛隊による大規模な虐殺が行われた。当時村にいた村民のほぼ全員が殺され、村は一日にして廃墟と化した。
目次 |
[編集] 虐殺
1944年6月、連合国のノルマンディー上陸作戦の進行につれ、現地のフランス・レジスタンスはドイツ軍の作戦を妨害するため、通信攪乱などの各種工作をより積極的に行うようになっていた。参謀本部からの指示を受け、ノルマンディーに向け進軍中であった武装親衛隊(SS)第2装甲師団「ダスライヒ」は、行く先々で彼らによる攻撃と破壊工作に苦しめられていた。
6月10日早朝、とあるフランス人2名より密告を受けたSS少佐オットー・ディークマンは、同僚のSS少佐オットー・ヴァイディンガーに対し、「ドイツ人高級将校1名がオルドゥール村でマキ(註:レジスタンス組織)により捕らえられたようだ」と報告した。そのフランス人は、オラドゥール村の村民ほぼ全てがマキに関わっており、現在マキの指導者たちがオラドゥール村に滞在しているとも述べた。ちょうど同時期、リモージュにいた親衛隊保安部員は、現地の内通者からマキの司令部がオラドゥール村に存在するとの情報を得た。捕らわれたドイツ人高級将校はSS少佐ヘルムート・カンプフェとされるが、彼はディークマンとヴァイディンガーの友人であった。なお、その後カンプフェが発見されることはなく、SSが作成した「南フランスでの対テロ作戦中の行方不明者リスト」にも彼の名前は載っていない。
6月10日、ディークマンに率いられた第一大隊は、オラドゥール村を包囲し、住民に村中心部にある広場に集まるよう命令した。表向きの口実は身分証明書の検査であった。集まってきた住民のうち、女性と子供は教会に連れて行かれた。しばらく経ったのち、男性は6つに納屋に分かれて連行されたが、その納屋には既に機関銃が待ちかまえていた。生存者の証言によれば、SSはまず脚を狙って発砲。彼らを逃れられないようにした後、たきつけで体を包み、納屋に火をつけた。生存者はわずかに5名で、197名が死亡した。
男性たちの「処分」を終えると、兵士たちは教会の中に入り放火した。一説によれば、毒ガスも使用されたとされる。中にいた女性と子供はドアや窓から逃げだそうと試みたが、ここでも待ち受けていたのは容赦ない機関銃による銃撃であった。女性240名、子供205名が混乱のなかで命を落とし、奇跡的に女性1名が一命を取り留めた。また、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団も逃げ延びることができた。その夜、村は以前の面影をうかがえしれないほど徹底的に破壊された。数日たってから、生存者たちは遺体を埋葬することを許された。
[編集] 抑圧
ドイツはレジスタンス運動のメンバーをテロリストと見なしていた。制服を着るわけでもなく、非武装のドイツ占領要員への攻撃をためらわず、一般民衆に紛れて活動する「顔の見えない」彼らを、非常に大きな脅威と捉えていた。オラドゥール村における虐殺は突発的なものではなく、慎重に練られたレジスタンス一掃政策の一部だった。しかしながら、このような虐殺や何千人にもおよぶ一般市民の死にもかかわらず、フランスにおけるレジスタンス運動は様々な形態を取りながら終戦まで続けられた。
ドイツによるこのような集団報復が行われたのは、オラドゥール村だけではなかった。ロシア(現ウクライナ)のコーテリシー、チェコのリディツェ村、オランダのパトン、イタリアのマルツァボット村などでも、同様の虐殺が行われている。さらにドイツ兵はフランス各地で、無作為またはレジスタンス疑惑のある集団の中から人質をとった。これは、自身に加えて他者の命まで危険にさらすのをためらったレジスタンスが攻撃を控えることを狙ったものであった。
[編集] 戦後
フランス南西部の都市ボルドーでの軍事裁判を前にした1953年7月12日、生存していた兵士約200人のうち、65人を対象にした審理が開始された。当時、東西ドイツに居住していた者はフランスに引き渡されなかったため、出廷したのはわずか21人で、その内訳はドイツ人7名、残りの14人はアレマン人であった。アレマン人たちは、一人を除いて、自分たちは意志に反してSSに徴集されたと主張した。だが、SSの記録によればそのような強制徴集の事実はなく、ナチスに対し共感をもっていた彼らが、自発的に参加した可能性が高い。 フランス当局の見解は二つに割れていたが、2月11日、20人の被告に対し有罪が言い渡された。これに対しては大論争が巻き起こったため、2月19日、フランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされた。その後、時をおかずしてアレマン人は釈放された。
1958年までに、ドイツ人被告も同様に全員釈放された。レジスタンスに対する攻撃命令を下したダスライヒ指揮官カール・ハインツは、1971年、企業家として成功したその生涯を閉じた。彼が起訴されることは一度もなかった。
武装親衛隊に対する最後の公判は1983年に行われた。その少し前、SS中尉ハインツ・バールトがドイツ民主共和国領内で捕らえられた。バールトはオラドゥール村での虐殺に小隊指揮官として参加し、45名の兵を率いていた。彼は男性20名に対する射撃指示をだしたとされ、ベルリンにある裁判所で終身刑を言い渡された。1997年、バールトは統一後のドイツで釈放された。
戦後、シャルル・ド・ゴールはオラドゥール村を再建しないことを決めた。ナチス占領の残忍さを後世に伝えるために、当時のままにとどめようとしたのである。1999年には、フランス大統領ジャック・シラクが、オラドゥール村を訪問する人々にこの村が経験した惨劇を伝えるためのメモリアル・センター(サントル・ド・ラ・メモワール, Centre de la mémoire)を開設した。
[編集] 統計
現在、オラドゥール村はオート・ヴィエンヌ県のコミューンのひとつである。新しい村落は破壊された以前の村とは離れた場所に作られた。
下のグラフはオラドゥール村の人口をグラフで表したもの。
[編集] 訳註
- SS関連
- 2nd SS Division Das Reich:第2装甲師団「ダスライヒ」
- Sturmbannführer:SS少佐
- SS-Obersturmführer:SS中尉
- その他
- collective punishment:集団報復
とした。