イラク日本人青年殺害事件
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イラク日本人青年殺害事件とは2004年10月に発生した、国際的テロ集団であるアルカイダの有力者であるヨルダン人幹部アブー=ムスアブ・アッ=ザルカーウィーが率いているとされる「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループによって日本人青年(当時24歳)が殺された事件である。
事件の概要
2003年5月1日に行われたイラク戦争終結宣言後のイラク国内では、旧政権の残存勢力だけでなく、アメリカが根絶しようとしたイスラム過激派によるテロが横行する危険地帯となっていた。2004年4月にはイラク日本人人質事件を含む一般人を人質とするテロも発生していた。そうした最中にあった同年10月頃、「イラクの聖戦アルカイダ組織」を名乗るグループがインターネットで日本人青年(当時24歳)を人質にしたと犯行声明を出し、日本政府が48時間以内にイラクからの自衛隊撤退に応じなければ殺害すると脅迫してきた。それに対し日本政府は青年の解放を求めたが要求についてはテロリストとは交渉しないとの立場から拒否した。その後、2004年10月31日未明にバグダード市内で惨殺死体となって発見された。また11月2日には犯行グループが犯行声明とともに青年が星条旗の上で殺害する場面をネット上で動画配信した。
事件に対する反応
- マスコミにより、イラクのような危険地帯へ行った被害者の行動はあまりにも軽挙であったという報道がなされた。
- 一部の者が、被害者の家族に対し、「自業自得である」といった電話をかける等の非常識な行動を取ったことが非難された。
- 小泉純一郎首相が即座に要求を拒絶したことについて町村信孝外務大臣は問題無いとしたが、それに対し賛否両方の意見があった(即答する必要はなかったのではないかといった意見)。
- また自己責任論を主張する人々のなかには、以前にも日本人が人質となった事件が起きているにも係わらず軽率な青年の行動のために血税を1円でも使うべきでないという意見も出たが、他方それは政府の大義の前に国民の生命は軽いとする国家至上主義論であり、受容れ難いとするむきもあったが、青年は制止を振り切って隣国ヨルダンよりバスでイラク国内に入っており、外務省など関係機関が把握しきれるものではないとする擁護論が持ち上がり、国内は世論を二分する結果となった。(青年は日本を離れて長かったため、日本人3人などが人質となった事件が起きたことを知っていたか不明ではある。)
- 家族はあくまでこうした“政治的対立に巻き込まれ利用される事”を避けようという姿勢であり、「彼の死を政治的に利用しないで欲しい」というコメントを発表した。しかし、日本国内の一部には「彼の死の責任は自衛隊を派遣した小泉首相にある」という主張をする者もあった。